カテゴリ:本
日本人なら歴史ファンならずとも、信長、秀吉、家康、光秀と書けば、あえて姓を明らかにせずともそれが誰か知らぬ人はいませんね。長く続いた戦乱の世がようやく収束を見ようとし始めた16世紀の終わり、この四人の登場人物がこの国の歴史の大舞台を動かしたといえましょう。 その4人の関係をコミカルに描いた戦国四人シリーズの第4弾。その舞台は、これも誰一人として知らぬことはない桶狭間というのですから驚きです。 今読んでいる本。鈴木輝一郎著、「桶狭間の四人 光秀の逆転」。 「金ケ崎」、「姉川」、「長篠」と続いたこのシリーズ。史実によれば、近江の浅井・越前の朝倉と刃を交えた金ケ崎と姉川の戦いが1570年、甲斐の武田を滅ぼすことになった長篠の戦いが1575年。桶狭間の戦いは1560年のことですから、舞台は長篠より15年前に遡ることになります。 尾張の領地をめぐる織田一族の血で血を洗うような抗争をようやく終息させたばかりの信長に襲い来る新たな脅威。当時街道一の弓取りといわれた駿河・遠江の太守今川の西進。京へ兵を進めようとする今川勢4万に対して、信長が動員できたのはせいぜい2千。 どう考えても織田に勝ち目がないとされたこの戦い。所説いろいろある中で、 鈴木輝一郎の考えはけた違いにユニーク。 副題に「光秀の逆転」とあるように、史実では桶狭間には参戦していないとされる光秀を登場させ、当時浪人の光秀は今川に仕官しようとしていた。秀吉はその橋渡しの担い手として、今川方の先鋒であった家康(当時は松平元康)と秘かに連絡をとっていた。秀吉は状況を見ながら切羽詰まれば織田から今川に寝返ることを秘かに企んでいた。そのための今川義元への重要な手土産が光秀というわけ。 負けることなど一瞬たりとも考えていなかった義元からしてみれば、後々の尾張の統治をどうするかこそが問題で、義元は尾張をのみ込んだあとの自治を信長に任せようと考えていた。ゆえに圧倒的な勢力を信長に見せつけ、戦わずして信長を下らせようとしていた。義元は端から織田を滅ぼすことなど考えていなかったのだと。そのためには織田との繋が何としても必要であった。そこへ秀吉と光秀がやって来たではないか。 一方信長は、最後の最後まで決心がつかなかった。このままでは、今川に下ろうとする配下に命を狙われかねない。ゆえにたえず行方をくらましていた。今川勢と対峙する善照寺砦に集結した2千の将兵さえ信用できなかった。 伴廻りの数騎のみでやって来た熱田神宮、向かうは今川の本陣か、善照寺砦砦か、どこへ行ったとしても待つは死のみ。そこへ秀吉と光秀が戻って来る。 信長が下した決断とは・・・。 日本の歴史に燦然と名を残す桶狭間を舞台に、かの4人の武将はなにを考えどう行動したか? 鈴木輝一郎はそれを徹底的にコミカルに描いていますが、もしかしたら桶狭間の歴史の裏には、そのような事実が隠されていたとしたら・・・。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年09月22日 12時50分08秒
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