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カテゴリ:光圀の諸国への旅
天祖・諏訪神社への参拝が終わった後に大通りである第一京浜へ戻るために立会川駅方向への商店街に沿ってゴー。
ところで、なんと、公園の前に立った坂本龍馬の像と出会った。嘉永7年(1854年)のペリー来航の時、坂本龍馬は土佐藩品川下屋敷の近くにある鮫洲抱屋敷に築かれた浜川砲台の警護にあたっていたという。この界隈は、坂本龍馬による亀山社中の成立や薩長同盟の斡旋など行われた地と言われる。もともと高知市より、桂浜にある龍馬のブロンズ像と同じ姿のものが寄贈された。今の像は2代目で、景品ロータリークラブより寄贈され、二十歳のころの龍馬の顔、姿を再現させたものである。履物もブーツではなく草履と全国的にも珍しいブロンズ像である。 解説を読んだら、浜川砲台まで歩いて5分ほどしかかからないことがわかったため、当然見学しに行かなきゃ。 ペリーが嘉永6年(1853年)に一回目の来航の後に、江戸幕府は、次回は戦争になると想定し、江戸湾の防衛に力を入れよとしたが、土佐藩は、鮫洲抱屋敷に浜川砲台を築く願いを出した。八門の大砲が設置されたが、復元されたのはこの六貫目ホーイッスル砲である。ほかの藩が実物ではなく、大砲の見せかけの偽物を設置したのに対し、土佐藩はきちんとした大砲を装備したため、江戸っ子から称賛されたという。そして、浜川砲台には、佐久間象山が砲術・兵学を教えるために1851年に開いた五月塾で学んだ坂本龍馬がいた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.26 14:05:02
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