『八重の桜』最終話
第50話(最終話)『いつの日も花は咲く』「わだすは諦めねえ」by八重それまで敵を撃っていた銃を空に向ける八重。そして、この台詞。解釈は色々あるのだろうけどこのところの流れから言えば、やはり「再び戦を学ばず」ということになるのかな?襄が言った様に彼も八重も種を撒いたところ。世の中は戦争に次ぐ戦争でこの言葉は全く生かされていないけれどいつか花開く時を信じる八重の図ぅ?八重自身もかつては銃を取り実際に戦いに身を投じていたわけだけど今は頼母に「桜だ」と言われる女性になった。つまり、この教えは八重個人の中では美しく強く花を咲かせていると?この教えとは裏腹にキリスト教世界は戦争を多く引き起こしてきたし今もそう。でも、それは聖書が間違っているのではなく聖書を実行していないから…その通りに生きてはいないから。つまり、逆に聖書の教えに逆らえば全ては上手くいかないということを実証しているってことだ。そんな世界にあっても諦めない!と強い眼差しで言う八重の姿は本来なら、私の感動どころのど真ん中に来そうなもんなんだけど何かイマイチな印象だった>スミマセンスミマセン視聴率のためのテコ入れってヤツか後半に入り脚本家が変わったそうだけど却ってマズかったんとちゃう?>個人的見解前半は八重自身は会津に留まり世の大きな流れからは蚊帳の外って感じでまあそれは当時の女性の立場としては当然なんだけどもドラマ的には話が2つに分かれてしまったしそれが対比的に描ければ良かったんだろうけどちょっとトーンが違い過ぎた…というネックはあったものの会津視点で描かれるところや八重を始め実戦に参加する女性達の姿等色々と見所はあったし緊迫感もあったと思う。後半は明るさが出てきたのは良かったものの能天気な感じにまでなっちゃってたし軽~く薄~い話になっちゃってた気がする。八重周辺はホームドラマの様相だったし折角の会津視点の戦争、ひいては歴史感が何か行ったり来たりでウヤムヤというか…そのトーンの変化と共に八重自身の内面の変化をドラマチックに描いてくれたら面白かっただろう。でも、八重も、覚馬も、襄も…何だか薄かったなあ…と思うのは私だけ?まあもしも聖書の基本的知識は誰もが持っているものとの前提であるならば多少は脳内補完できるってもので女でありながら鉄砲に惹かれ、やがて戦争に参加するまでになった八重が最終的には「再び戦を学ばず」に至った物語―とシンプルに受け取って感動すべきかもな。そういう意味では徳富蘇峰と好対照になっていたし彼との会話から銃を空に向ける象徴的なラストシーンに至るところは面白い表現だよね。ただ同じく蘇峰と対照的な人物として位置していた蘆花が「生きた人間を描かく」とか何とか言ってその姿だけは共感できるのだけど書いていたものが『不如帰』って…いや、読んだことはないんだけどさ検索してみたところによると大山巌の娘をモデルにした小説で捨松を継子イジメをする酷い人間として描いているために捨松は長いこと風評被害に悩まされていたんだとか…「生きた人間」ってそれかい!?って気がしちゃうしなあ…つまりはそういう風に綺麗綺麗に纏め様として史実とは微妙に異なる薄いドラマになっちゃったんじゃ…なんて思ってしまった>スミマセンスミマセンいやいやNHKでちょこちょこ流してる復興支援ソングをまんま持ってきた今回のタイトルからしてこれは被災地の人々を力づけるためのドラマだったんだと認識を新たにすれば、これはこれで良かった!っちゅーことになるのかも>そうか?でも、綾瀬はるかの八重は素敵だったしオダジョーの新島襄は大いに支持するのだけどね。他の登場人物達もそれぞれ良かったから全体的には、このドラマ、好きだったと言えるかも。☆トラックバックは何がなんだか…ひじゅに館へお願いします☆http://yakkunchi.blog90.fc2.com/tb.php/1325-d152812f☆応援クリック、よろしくお願い致します☆ にほんブログ村 人気ブログランキングへ blogramランキング参加中!☆映画&ドラマ感想は「REVIEWの部屋」に纏めてあります☆やっくんちブルーレイBOX桜もちチョコさくらゆらゆら