カテゴリ:展覧会など
プログラム 能 敦盛 シテ 浦部幸裕 狂言 千鳥 シテ 茂山正邦 能 隅田川 シテ 観世銕之丞 仕舞 邯鄲 楽アト 分林道治 藤 キリ 塚本和雄 水無月祓 河村隆司(欠番) 山姥 キリ 浦部好弘 能 鵜飼 杉浦豊彦 先日亡くなった河村隆司師のご冥福をお祈りします。 **** 能 「隅田川」 シテ 観世銕之丞 子方 片山紫乃 ワキ 江崎金治郎 ワキツレ 江崎敬三 大鼓 石井喜彦 小鼓 林光寿 笛 帆足正規 後見 片山九郎右衛門 片山伸吾(河村隆司と交代) 地謡頭 片山清司 シテが東京の観世銕之丞。初めて観るのでかなり楽しみ。 また、確か、中学の時か、国語の教科書にも載っていたし、有名。謡本を読む限り、これはかなり面白そう。 笛の独調から。柔らかな笛の音。 渡守(ワキ)、旅人(ワキツレ)ともに素袍。 シテ、水色の水衣。よく見るススキの葉のような摺箔。紺地に、波、船、網などの金糸の縫箔。鬘帯も水衣と同じ水色地に銀糸で花の刺繍(これはかなり古そうで、切れたのが糸でつないであるように見えた)。 深井。目元、鼻の途中まで女笠の陰が落ちて、より、やつれ・疲れた感じに。悲しみのなかに、ただ、どことなく、笑みを秘めているようにも。というよりも、もともと能面は、喜びと悲しみの両方、相反する感情を含んでいて、それが、シテの所作や謡、囃子などに応じてどちらかに見えるのだろうけど、なんか、今日は、その両方が見えてしまっていた。 力が抜けた、ふわ~とした、シテの運び。子を探して諸国をさすらう狂女の足取り、というよりは、銕之丞自身の芸風のように思った。 銕之丞の謡や台詞の節回しには独特のものがあった。いつも聞き慣れている謡などとなんか違う。抑揚、高低、強弱などが、悪くないけど、僕がイメージするのとどこか違っていて、なかなか感情移入しにくい。 謡も、清司くんが地謡頭とはいえ、やっぱり、いつもの感じとなんか違う。いつもの、京都の地謡ではなく、東京のシテに合わせようとしている感じがするのだが、合わせ切れていないのか、しっくりしない。シテの所作と謡がどこかで微妙にずれている感じ。シテの所作のひとつひとつは申し分ないのだけど、謡とのズレのせいで、どこか、浮いて見える。 同じ観世流でも、京都と東京ではこれほど違うのか、それとも、銕之丞個人が独特なのか、よくわからないけど。 謡や台詞といえども、日常の言葉をもとにして、そこで磨かれた言語感覚を基礎にしていると思うけど、東京的な言語感覚と京都的な言語感覚とのズレなのだろうか? DVDやテレビなどで東京のシテの能を観ると、ある意味、単純だと思う。謡本通り、とでもいうか。 それに対して京都の、カタクや清司君の能や謡は、+αがある。謡でいえば、重層的に意味が折り重なり、微妙なニュアンスや陰影が加わる。舞も同じ。それらの謡や舞が構築する能自体が、そのために、やはり重層的に意味が折り重なった複雑でニュアンスや陰影に富んだものになるのは、つまり、「幽玄」になるのは自然なことかと。そして、その結果が、謡本から素直にイメージされるものとはまったく違った能になり、僕はそれが楽しい。 今回の銕之丞の「隅田川」も、単純明快。もちろん、決して下手じゃないし、いいんだけど、ある意味、「隅田川」のスタンダードという感じで、片山系の能に馴れた僕には、物足りない。 「再会できない母と子の悲劇」とある能の鑑賞本に要約があるが、たとえば、銕之丞の能はそういうふうに単純明快に言い切ってしまえる感じ。 一方、片山家の方はといえば、たとえば、こんな感じになるのだろうか。「再会できない母と子の悲劇を、あくまでも優美に表現」とか。別に、「優美」なのは片山家のアイデンティティだろうから、銕之丞がそうである必要はないけど、要するに、もう一つ、なにかがほしい、ということ。重層的な意味、とはこのこと。 なんか、今時の、「わかりやすい云々」みたいで、物足りないのだ。 それにしても、子役はすごい。 「南無阿弥陀仏」と子役の声が塚のなかから、シテ・地謡にまざって聞こえてきたときには、胸が締め付けられる思いがした。 おやじばっかりの低音の声のなかに、今回の子役の紫乃ちゃんの高く澄んだ声。女の子だから男の子よりも声が幾分高く、効果絶大。一生懸命、無心に謡っていて、しかも、節回しがシテ・地謡と少しずれたりしているところが、また、無垢な子供そのもの。 だけど、ただ、それだけではなく、塚から出てきたときの立ち姿(後ろ姿)の美しさ。尋常じゃない。片山家というのは、日常の立ち居振る舞い、箸の上げ下ろしから「優美」な動作・所作を教えられる、ということを聞いたことがあるが、まったくその通り、な感じ。なんか紫乃ちゃんにむかってぴしっと舞台の空気が凝固するような、そんな佇まい。 「南無阿弥陀仏」の節も、シテや地謡とズレていたとはいえ、この立ち姿のようにぴしっとして美しく、その上に、子供の無心さや一生懸命さが加わって、やっぱり、とても感動的だった。 柔らかい、飄然とした雰囲気が所作に漂う銕之丞とは対照的。 なんか、紫乃ちゃんが、主役のようにも思えてしまった・・・。 ただ、我が子の幻と再会するシーンの演出にはちょっと興ざめ。 子役は立ったままで、母だけが近づいてきて、ガバっという感じで子を抱こうとする。それを交わす子役。もう一度抱こうとして、空振りの、母。 以前、この部分をたまたま『能とは何か』というDVDで観たのだけど、そのときの演出の方がよかった(シテ 片山慶次郎)。 母が右手をやや挙げて、子も同じ手をあけで、両者が近づいていく。が、子は幻なので、すれ違い(すり抜けてしまい)、はっとして、悲しみの現実に立ち返る、といった感じ。 母は、子の幻に、その子への思いを投影している。というか、死んだ子への思いこそが、幻となって現れている。たとえその子が自分のことを恋しがって死んだということを知らないとしても、子は自分を慕い、会いたがっていたと思うのがこの「隅田川」の母親では? だとするなら、子供の幻は会いたかった自分をしたって、当然抱き寄ってくる、とこの母なら思うはず。つまり、自分の情愛を投影しているのだから、突っ立ったままの幻よりも、駆け寄ってくる幻の方が、母の死んだ子への情愛が強い、ということになる。だからこそ、悲劇、になるのでは? そして、重層的にも。 突っ立ったままの幻を抱きにいって、ガバっ、空振りでは、その子がただの幻にしか過ぎなくなる。 しかし、その子が駆け寄ってくることで、ただの幻ではなくなる。少なくとも、子へのこの母の情の深さ、おもいのつよさといったものが、さらに、強調されることになる。 自分に駆け寄ってくる子とは、この母自身の情愛の投影であり、子の母親の情愛を写し、反射する、鏡なのだから(そして、能とは、鏡の演劇なのだから)。 しかも、突っ立ったままでは、この時点で、もう、幻であることがばれてしまう。 駆け寄ってくるからこそ、母にとっても、客にとっても、その子が一体実はなんであるのか、曖昧になる。その曖昧さは、重層的な意味から来る。駆け寄ってくるというのは、子供自身の自発的な行為だから。もちろん、実は、母が空想する我が子の像なのだが、しかしそれは、今となっては叶わぬ望みであり、だからこそ、我が子は生き生きと、自分に駆け寄ってくる。母を恋い慕いながら死んでいった我が子のこころをおもんぱかっている。というより、この母と子は一体だから、母の望み=幻の子の心であり、行為となる。突っ立ったたままの子では、すでに、母と子は分離してしまっている。実際この母子が心理的に分離していたかどうかは別として、この母らすれば、一体、なのだ。だから、子を探し求めて「隅田川」くんだりまでやってこれるのだし、突っ立ったままの子では、一体ではなかったという意味で、結局、「隅田川」までやってきた母の行為と矛盾することにもなる。 また、この「幻」の再会シーン(幻の子と再会したという意味と、再会自体が実は幻だったという意味で)、所作は象徴的であればいい。ガバッと抱こうとする、しかも二回も・・・同じ抱くという所作でも、もっと簡潔・象徴的な所作でする方がいいのでは? 要するに、上生の意匠と一緒。目に見える形を簡潔・洗練・単純化することによって、観る者に与える意味合い、イメージは、逆に、豊かになる。 むろん、上生は、銘や風味が、単純な形を豊かにする。 能は、その所作に至る時間、経緯、謡、囃子など。だから、謡がない後場の舞の部分が象徴的にもなる(「隅田川」には、後場に舞はない)。 僕にしてみれば、能も上生も同じ^^ さっき、今回のは「隅田川」のスタンダードみたいといったけど、ここまで書いたら、いい意味でも、悪い意味でも、と付け加えたくなってしまった。 その他の演目については、また、次回・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008/05/26 10:11:27 PM
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