|
テーマ:人口減(144)
カテゴリ:福島・宮城の地元ネタ
昨日のエントリで会津地方の人口動態について書きましたが、2000年以前の国勢調査における人口動態も、一応調べてみました。結論から言うと、1970年以前の人口減少率が、とんでもないことになっています。
1950年 415,854人 1955年 423,850人(7,996人(1.9%)増) 1960年 410,045人(13,805人(3.3%)減) 1965年 380,372人(29,673人(7.2%)減) 1970年 354,765人(25,607人(6.7%)減) 1975年 341,253人(13,512人(3.8%)減) 1980年 341,820人(567人(0.2%)増) 1985年 340,399人(1,421人(0.4%)減) 1990年 336,785人(3,614人(1.1%)減) 1995年 334,205人(2,580人(0.8%)減) 2000年 325,400人(8,805人(2.6%)減) 2005年 310,931人(14,469人(4.4%)減) 2010年 291,944人(18,987人(6.1%)減) 2015年 277,754人(14,190人(4.9%)減) 2020年 256,403人(21,351人(7.7%)減) 2022年 248,352人(8,061人(3.1%)減)※8月1日現在推計 1955~2022年までのトータル 175,498人(41.4%)減 戦後から1990年代にかけては一貫して自然増が続いていたから、1955~75年にかけての人口減の主要因は地域外への転出ということになります。それにしても、自然減がメインとなっている今と大して変わらない人口減少率を記録していたとは、知りませんでした。 また、現時点で人口のピークとなる1955年に会津地方の人口が42万人もいたことにも、少なからず驚かされました。今も当時も都道府県で人口が最少である鳥取県の人口が当時614,259人でしたから分県論議までは出なかったでしょうけど、それに近いマンパワーは有していたことになります。 それにしても、人口流出が多かった時期に中心都市である会津若松市がいわゆるダム機能を発揮できなかったことが悔やまれます。現在の会津若松市に相当する地域の人口は1955年時点でで119,603人と現在(8月1日時点の推計人口114,809人)よりも多かったのです。鉱業、造船、水産を主産業としていた都市を除く我が国の10万都市では珍しいケースです。せめて1960年代に第二次、第三次の産業基盤の整備が進んでいたならば、もう少し人口流出も抑えられたと思うのですが… 【15%OFFクーポン対象!】【年間ランキング入賞】 日本酒 セット 杜氏厳選 辛口 300ml×6本 飲み比べ 会津ほまれ 公式直営店 ほまれ酒造 ギフト お酒 純米大吟醸 喜多方 福島 プレゼント お祝い 内祝い 送料無料 誕生日 父の日 グルメ 還暦 秋 敬老の日 月見 十五夜 彼岸 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[福島・宮城の地元ネタ] カテゴリの最新記事
福島は故郷ですので時々読ませていただいております。
會津の人口減少、そんなに酷いのかと驚きました。 会津若松の出身で 一番人口が多かった1955年の生まれです。まあ中学、高校の同級生はかなりの頻度で他県に流出しており私もご多分に漏れずその組です。高校の同級生の方が流出割合が多く、たぶん95%は地元に住んでないかも。戻れる家業があるとか公務員、教師、医師など以外は大学に行くと他に就職すればまず戻りません。まあ職(会社、役所、次げる自営?)が無いので当たり前なのです。 定年後に戻っているのも1クラス50人に5人?くらいでしょうか。 中通りはまだ地元に就職先があるみたいですが 会津には大卒以上の職の受け皿はあまり無いですね。 磐越西線が不採算なのは知ってましたが人口がそうではやむを得ないところです。興味深いエントリー有難うございます。 (2022.09.20 13:56:30)
>RONさんへ
コメント、ありがとうございます。もしかして以前にもコメントくださったことがあったでしょうか(磐田市のネタを書いた時でしたか)? それにしても、会津の人口減少がここまで長期にわたって続いていることに、私自身も言葉を失っています。市町村別の人口を確認すると、1955年の人口が今の倍以上という所も少なくないですね。特に1955年当時ダム建設で活況を呈していた只見川沿いの町村に、その傾向が顕著です。 特に1960年代に会津の人口が減っている主要因はいわゆる団塊世代の就職に伴う転出と推察されますが、この時期は郡山・常磐地域の新産業都市指定や双葉郡の原発建設があり、これらの地域では基本的に人口が増えています(いわき市は横ばいですが)。会津からこれらの地域に転出した方も多かったのかな…と思います。 (2022.09.20 21:04:15)
CAPTAINさんへ
そうですね、静岡磐田市の件でコメントしたことがありました。 >1955年当時ダム建設で活況を呈していた 会津若松市内の私の中学の同級生は父親が東北電力関係の人が多く その後に転勤で居なくなった記憶も。 やはり水力発電などインフラ系の産業が去ると厳しかったのかも。 1960年代には観光振興策で鶴ヶ城の天守閣再建や 富士通などのメーカー工場誘致など努力の跡はあるものの 産業が人口を支えて行けない様になったのでしょうね。潮流としてグローバル経済やジャストインタイムが田舎の工場を必要としなくなったのもあります。また高速道路が逆に一泊観光旅行の距離範囲を遠くして関東近県の温泉旅館は衰退しました。(磐梯熱海、東山、芦ノ牧そういえば鬼怒川や水上もそうですね) 親より良い生活を子供にさせるため またより上の学校に進学する人が増え そうなると収入向上のために東京など他県に出て行く若い人が増えてそれが戻ってこない。これが何世代か続くと人口は激減する。会津に限らず浜通りでも静岡県でもどこの地方県でもある話なのですが。若い人が減ると負のスパイラルと成るようです。 企業と学校を政府が意志をもって地方へ移転しないとその流れはどうしようもないので 法人税課税率でも変えて誘導するしか地方創生は難しいと思えます。 (2022.09.20 22:12:10)
>RONさんへ
再びのコメント、ありがとうございます。 会津の場合観光業に活路を見出した側面がありますが、たまたま今月初旬に猪苗代町に行った際、2016年に開設された道の駅が賑わっている一方で志田浜や世界のガラス館あたりは以前に比べお客さんがだいぶ減っていて、一ヶ所が継続的に賑わうのは難しいのかな…と感じました。これでは定住人口の増加にも寄与しづらいですね。 ただ、会津の北隣にある米沢市をみていると、大学が昔からあり製造業も相応に発展しているにも関わらず人口減少に歯止めがかかっていない現実があるので、今できる限りの施策をしても過去に人口流出があった地域の再生はかなり難しいなぁ…とも感じています。 (2022.09.21 06:26:47) |