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2014.09.18
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カテゴリ:災害記録帳
昭和20年(1945年)9月17日、鹿児島県枕崎に上陸した「枕崎台風」は室戸台風、伊勢湾台風と並ぶ「昭和の三大台風」のひとつ。上陸時の中心気圧が916.6hPa、、最大風速50m/s、暴風半径600kmという観測史上に残る勢力で、被害は西日本を中心に広域にわたったが、とりわけ原爆投下から1カ月の広島と呉では犠牲者が2,000人を越えるなど最も大きな被害となった。全国の死者2,473名、行方不明者1,283名、負傷者2,452名、住家損壊89,839棟、浸水273,888棟(理科年表より)


規格外れの勢力で上陸

台風上陸地に位置する枕崎測候所で記録された最低気圧916.6hPaは当時としては室戸台風(1934年)時に室戸で観測された911.9hPaに次ぐ値。ただしこの数値は1951年(昭和26年)の正式な統計開始以前の値であることから、参考記録となっている。
枕崎上陸前に台風が通過したとされる沖縄本島では、戦争で観測が中断されていたため気圧や風速のデータが残っていないが、アメリカの病院船リポーズが沖縄本島の南東海上で台風の眼に入り、最低気圧856hPaを観測したとされている。

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<枕崎台風経路図(広島県HPより)>

宮崎県の細島灯台では最大瞬間風速75.5m/sを記録、九州では高潮や塩害の被害が大きかった。また、大阪でも終戦直後であったことから強風によるのバラックの崩壊なが相次いだことに加え、臨海部の低地が高潮の襲われ、家屋の被害は4万戸に及んだ。

また、各地で農作物が甚大な被害を受けた。収穫直前の米はもちろん、ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ、大豆などの穀物や野菜が全滅した。ただでさえ戦後の厳しい時期であり、食糧難を深刻化させる結果になった。


広島の悲劇

枕崎台風では広島における被害が突出していた。わずか1ヶ月前に原爆が投下された戦災の酷さに追い打ちをかける形で台風が襲ったことはあまりにも不幸だった。

市内を流れる太田川は氾濫、可部から市内までのほとんどの地域が浸水した。
呉市の被害も大きかった。中心部はほぼ浸水し、山に囲まれた地形も相まって、周縁部の傾斜地では土石流が多く発生し、家屋を飲みこんだ土砂が市内に流れ込んだ。
これは地形の影響が大きいことはもちろんだが、軍港建設のための乱開発が影響したとの見方もある。

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<呉市氾濫分布図(広島県HPより)>

広島の西に位置する大野町(現廿日市市)にあった大野陸軍病院では、原爆により被爆した患者が多く入院していた。
また、広島への原爆投下直後から京都帝国大学の理系学部の教官が現地に赴き、被爆状況の調査や被爆者の治療に当たっていた。9月中旬には京大はこの調査を全学的に進めることを目的として原爆災害総合研究調査班を設置、多くの人材を派遣しており、大野陸軍病院で救援活動にあたっていた。

17日の22:20過ぎ、病院の裏手にあたる丸石川で大規模土石流が発生、病院のある宮浜地区一帯を襲った。病院は直撃を受ける形になり、一瞬にして海の中まで押し流された。
入院中の患者と被爆者の殆ど全員、医師・看護婦、そして京大から派遣されていた関係者ら156人が犠牲になった。

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<被災した大野陸軍病院(広島県HPより)>

土石流の発生については、戦争中に松根油を製造する目的で松ヤニを採取するため近隣の山の松の木を根まで掘り返したために、土石流が発生しやすい状態になっていたとの指摘もある。その一方で、枕崎台風の風雨が広島市内の原爆による放射性物質を洗い流したことで早い時期に居住可能になったとの見方もある。

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<大野陸軍病院があった宮浜地区(地理院地図)。中央を流れるのが現在の丸石川。病院は現在の老人ホームのあたりか>


複合災害の要素と汎用的な被災パターンが同居

被害が大きくなった原因は終戦直後の混乱期でもあり、十分な観測体制がなかったことや情報が伝わらなかったことが挙げられる。正確な被害状況の把握すら難しく、実際には公表された以上の被害があった可能性も高い。農産物の被害による食糧難も深刻だった。

戦争は人類の過ちであり、自然災害ではない。しかし、状況的には現在でも発生が懸念されている複合災害としての要素が大きいように思う。また戦時下の乱開発が被害を拡大させたとすれば社会的な要因も無視できない。

その一方で、市街地周縁部での大規模土石流による被害という意味では、記憶に新しい2014年8月の広島土砂災害と類似する部分もある。
結局のところ、同じような地域で同じような被害が繰り返されていることは事実であり、時代や観測体制の違い、あるいは終戦直後という状況の特殊性ばかりに目を奪われてはいけないようにも思う。





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Last updated  2016.03.06 14:19:40
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