カテゴリ:人間関係、不即不離
次に明智光秀。
59歳で農夫の竹やりを受けて死んでいる。織田信長よりも12歳年上であった。 15年間も信長の部下として仕えた。その間信長の冷たい仕打ちをたびたび受けていた。 それが本能寺の変で爆発したのである。 明智光秀は元々口数の少ない、物静かで穏やかな人であった。 自分の領地では、農民の安定を強く望んでいて、農民の税を減らすように努力していたという。 戦いでも力で制圧するというより和議に持ち込むというやり方を好んだ。 頭脳明晰で学究肌の風流人であったそうだ。 戦国時代というのは、光秀にとっては生きにくい時代であったことだろう。 今の時代だと研究室にこもり、自分の研究をまとめて学会誌に発表して生活している ような人だったのです。 それが第一線の営業本部長を、有無を言わさず押し付けられているようなものなのである。 さらに上司はヒットラーのような独裁者であったのだ。 戦国の時代に武将として生きたこと、信長の部下であったことが彼の最大の不幸であった。 こんな事件があった。本能寺の変の3年前のことだ。 光秀56歳。信長45歳の時のことだ。 1579年中国地方平定の一環として、信長は光秀に丹波出陣を命じている。 光秀は粘り強く説得を重ね、「命を奪わない」という約束を信長に取り付けて やっと波多野秀治兄弟を投降させて幕引きを図った。 ところが信長は、その約束を無視して波多野兄弟を安土にて磔にしたという。 光秀の努力も面目も丸つぶれである。 何よりも面子を重んじる光秀を深く傷つけた。 信長はこうした光秀のプライドを傷つけるような行為を繰り返している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.01.28 06:57:55
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