カテゴリ:人間関係、不即不離
今の日本の社会は、1億総対人恐怖症の様相を示していないだろうか。
人の思惑がいつも気になる。他人の言動に鋭く反応してしまう。 特に自分のことを非難されたり、無視されることには耐えられない。 いつもピリピリ、オドオドしてしまう。そんな自分が情けない。 心はいつも曇天、あるいは暴風雨の状態である。 対人関係を無難にこなしていくことが頭の中の大半を占めている。 生きていくことが苦しい。毎日地獄のようだ。なんとか抜け出したいが、どうしたよいのか。 皆目見当がつかない。どうしてそんなことになるのか。 その原因を探ってみた。 まず、明確な課題や目標、夢や希望を持ち得ていないことがあげられる。 高度経済成長時は車が欲しい、家電が欲しい、家を建てたい等の夢や目標があった。 現在はほとんど欲しいものは買いそろえた。そこで新たな目標の設定が必要になった。 だが物質的豊かさの次の目標設定はなかなか難しいのかうまくできていないようだ。 つぎは心の豊かさの追求に向かって方向転換してゆくべきだという人は多いいが、明確な目標とはなりえていないようである。 つまり現代は生きる目標の喪失時代と言えないだろうか。 そういう時代は、本来前に前進するエネルギーが不完全燃焼して、右往左往して閉塞状態に陥っている。 そこには自分の夢や希望などはない。課題や目標達成という意欲もわいてこない。 きわどく人間関係という障害物をかわしながらなんとか生きているけなげな姿がある。 アフリカのサバンナの草食動物たちが肉食獣の餌食になることを気にしながらなんとか1日を生き抜いているようなものだ。これではいかにも苦しい。 第2に家庭教育、学校教育、社会教育の弊害である。 最近の教育は没個性化、均一化、同質化、平均化、平等化を前面に押し出している。 抜けがして勝手な自由行動は許されないのである。 その場の空気を読んで、相手に合わせることが求められる。 4月26日で投稿した事例がそのことを物語っている。 日本は、国民皆年金、国民皆医療、介護保険、生活保護などのセーフティネットを張っている。 弱者を放置すると大混乱するから、最低限の生活は国が保証しているのである。 アメリカ等ではこれらは自己責任の自助努力に任せられていることが多い。 私はセーフティネットを批判しているのではない。その考え方について説明しているのだ。 最低限の生活を保障するということは、落ちこぼれを可能な限り救済するということである。 つまり同質化、均一化の考え方が土台として確立しているということである。 私はその考え方が突出して、突っ走ってしまうことに警鐘を鳴らしたいのである。 つまり前提として、その人のもともと持っている特性や個性を引き出して全面的に花開かしていくという考え方が先にくるべきではないのかということを訴えたいのである。 自分の長所、能力、個性を活かして、失敗やミスを繰り返しながら、自由に伸び伸びと挑戦したり、自由に行動することを推し進めない社会は問題がある。 自分のキャラクターをうまくアピールして、相手と話を合わせ、その場の空気を読んで、人づきあいの上手な社交的な子供ばかりを養成していると、対人恐怖症で苦しむような人間を多量に作り出すことにつながるのではないか。 換言すれば、そういう教育は他人の意向を第一に考える他人中心主義の人間を大量に作り出すことになっている。 他人を傷つけてはいけない。自分も傷をつけられてはいけない。 本音を隠して当たらずさわらず建前中心の人間関係を築いていくことが絶対的で唯一の価値観となっているのである。 その価値観を共有できない子どもは社会不適用として仲間外れにされるのである。 今のいじめは暴力でいじめられるよりも、無視されたり排除されるのである。 いったん排除されると元に戻ることは難しい。 だから子どもたちは仲間外れにされないように、本音を隠して表面上相手に媚びることばかりに神経をすり減らしているのである。 これは村八分にされた人が村から追い出されるのと同じことである。 これが1億総対人恐怖症に見舞われている日本の実態ではないのか。 人間は自分中心の考え方で生きていくことが優先されなければいけない。 自分の意志、気持ち、課題や目標、夢や希望に常に視線が向いていないといけないのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.04.28 07:13:27
コメント(0) | コメントを書く
[人間関係、不即不離] カテゴリの最新記事
|
|