カテゴリ:森田先生のエピソード
森田先生と親交の深かった藤村トヨさんはどんな人物だったのだろうか。
藤村トヨさんは国立市の東京女子体育大学、武蔵野市の藤村女子中学校・高等学校の創立者とされている。 その前身は私立東京女子体操音楽学校で、所在地は日暮里であった。 森田先生の家から15分程度だった。 学校とは名ばかりで掘立小屋のようであったという。 藤村トヨさんは、当初は創立者の高橋忠次郎氏に請われての一教師であった。 高橋忠次郎が野望を持ってアメリカにわたり、その後を託されたのが藤村トヨさんであった。 しかし、学生は集まらず最少は1学年6名のこともあったという。 学校経営は火の車で、役所から廃校の勧告がなされたこともあった。 いばらの道であったことは容易に想像がつく。 藤村トヨさんは生活のため私立東京日本女学校で体育教師をしていた。 森田先生との親交はここから始まった。森田先生もここで生理学、心理学を教えていた。 1908年(明治41年)3月、森田先生34歳の時、藤村トヨさんの依頼で、無償でこの学校の講師を引き受けている。 この学校は当初講師料を支払うゆとりはなかったのである。 藤村トヨさん31歳の時のことである。 以来森田先生は亡くなるまで援助を惜しまなかった。 何か普通の女性にはない芯の強さのようなものを感じたという。 藤村トヨさんは1876年(明治9年)香川県坂出に生れている。 大変な才女であったが、離婚した母のもとで、なんとしても学問で身を立てて家族を養わなければならないということにとらわれ出してから心身ともに変調をきたしてきた。 勉強恐怖症になり、不眠、食欲不振、胃腸不良、自律神経失調症などに悩まされた。 それでも1899年(明治32年)23歳の時、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)に官費給付生として合格し上京している。 ところが2年時から体調がすぐれず、寮の規律は守れず、授業は欠席が多かった。 そのうち精神衰弱および脚気として診断されてやむなく退学処分となり、失意のうちに坂出に帰って行った。 この病名は森田先生の場合と同じである。 森田先生は神経衰弱、脚気、不安発作などで悩まされていたが、藤村トヨさんも同じような症状で生死の境をさまよった経験をお持ちだったのである。 いつも死が身近なところに迫っていたのである。 そんな折、1902年(明治35年)に高松市で関西教育者大会の運動会があった。 その時、東京女子師範で習ってきた体操やダンスを生徒に教えてほしいとの依頼があった。 その時は、もう死を覚悟しているような状態で、憔悴していたが、死ぬ前の最後のご奉公のつもりで引き受けた。しかしこれが転機となったのである。 昼は生徒と一緒になって走り、跳ね、踊り、夜はたくさん食べ、よく眠った。 2月から練習をはじめ5月の本番前の3ヶ月間ですっかり健康を取り戻した。 トヨさんは、神経衰弱、脚気、勉強神経症、健康不安等のとらわれを脱して心身ともに健康体となったのであった。ここが森田理論の神経症回復に通じるところである。 その後10月からは私立丸亀女学校の体育教師となった。 そして翌年1903年、東京女子師範の恩師高橋忠太郎に見出されて再び上京を果たしたのであった。 私立東京女子体操音楽学校の教師となったのである。 その後はめざましい快進撃で女性の体育教師の育成に一生をささげたのであった。 その妥協を許さない厳しい指導方法は森田先生とよく似ている。 でも卒業生はトヨ先生を大変に慕っていた。 立派な体育教師を一人でも世の中に送り出そうと燃えるような情熱にあふれていたのだ。 その二人が運命の糸で手繰り寄せられ、それぞれの分野で多くの人材を育成されて、多大な社会貢献をされた事はとても興味深いことである。 (気骨の女 寺田和子 白揚社参照) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.06.03 06:05:55
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