カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
事実について玉野井幹雄さんの話です。
昔武士が茶会に招待されたとき、茶室に入るのに刀を持っていては失礼になると思い、刀を持たずに入ったところ、師匠から「武士たるものが刀を肌身から放すとはなにごとか」といって叱られたそうです。 そこで次に参加する時には、刀を持って入ったところ、同じ師匠から今度は「茶室に刀を持って入るとはなにごとか」といって叱られたというのです。 もし普通の人は、このように以前と違う対応をとられると混乱をきたし、動揺すると思います。 また首尾一貫しないその場、その場の対応に対して腹立たしく思うでしょう。 その師匠の品格を疑うと思います。 その武士は、何の言い訳もせずに、師匠のいうとおりにしたということです。 この武士は過去の言動に関係づけないで、目の前の事実に従ったということです。 玉野井さん曰く。師匠の過去の言動は過去の事実であって、現在の事実ではありません。 森田先生の事実に従えというのは今現在の事実に従えということです。 過去の事実よりも現在の事実に焦点を当てているのです。 (いかにして神経症を克服するか 自費出版 玉野井幹雄 238ページより引用) 森田の「事実唯真」から見ると、まさに素晴らしい対応であると思います。 銀河系宇宙を見ても、惑星はたえず猛スピードで動き回っています。 その変化を止めるということは存在そのものが崩壊してしまうということです。 ですから私たちのできることは、その時の変化に合わせて、変化に対応していくだけということになります。 この話は、私たちがつい口に出している「事実に素直に従う」という態度の養成は、よほど真剣に取り組まないと自分のものにはならないということだと思います。 目の前に現れた事実は、どんなに理不尽で受け入れがたい物であっても、基本的には従わざるを得ないのです。とかく私たちはその事実がよいとか悪いとか、正しいとか間違いであるとか評価をします。 是非善悪の価値評価は自分を苦しめる側面を持っているということは、十分に認識しておく必要があると思います。 朝令暮改という言葉があります。 相続税の法律や道路交通法等の法律は、今まで通用していた法律などが変更されて、全く異質のものに作り替えられます。 この場合基本的には是非善悪の価値評価をするのではなく、現在の法律に従うということだと思います。 節税のために、私は昔の相続税法に従って申告納付をしたいといっても、そんな主張を聞いてくれる税務署はありません。 心理学にダブルバインドという言葉があります。 たとえば母親が小さな子どもに、「危ないからお母さんから絶対に離れてはだめよ」といいました。 ところが少し経ってから「うっとうしいからお母さんにベタベタ付きまとわないで」と反対のようなことをいうことです。 一事が万事、こういうふうに大人から育てられると、子どもはどちらの言葉を信じてよいかわからなくなるからダメだという考え方です。 ところがこれは、交通量の激しい道路では「危ないからお母さんから絶対に離れてはだめよ」というのは当然の事です。 公園等で遊んでいる時は、「ベタベタ付きまとわないで自由に遊んでみなさいよ」と言うことも理解できます。 ようするに、この場合もその時その時の状況に合わせて、適切に対応するということが基本ではないでしょうか。 こんな笑い話があります。 一学期の終業式の時、ある高校の校長先生が、全校生徒の前で、「この夏休みは受験生にとってとても大事な時です。テレビなど見る暇はない。勉強に専念するように。」といいました。 夏休みが終わって二学期の始業式の時、「君たちはあの横浜高校の松坂の熱闘を見たか。ピンチにも果敢に真っ向勝負を挑んでいたではないか。あの気迫に学んで受験戦争を乗り切ろう。」といいました。 あまりのちぐはぐな言動に生徒から笑い声が起きたということです。 これも先の例と同じで、今現在の事実に従うのが森田だと思います。 我々は過去の経験をもとに是非善悪の価値判断をして、現在に対応しています。 それが「かくあるべし」を作り上げ、自ら窮地に追い込んでしまっている原因になっています。 それだけ今の事実・状態・現状に素直になって生きていくということは、生半可な気持ちではできないということです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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