カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
浄土真宗大谷派の学者で安田理深氏がおられる。
無位無官の在野の学徒に終始されたが、戦後来日したキリスト教神学者のティリッヒと対談し、ティリッヒを深く感銘させたことが知られている。 その安田理深氏邸が、1973年4月隣家からのもらい火で全焼した。 ご自分の蔵書、研究論文、ノートなどがすべて燃えてしまった。 安田氏は隣人を恨みました。 自分の大事なものを「焼かれた」と考えて、仕返しをしてやりたいと思ったそうです。 だが彼は仏教徒です。仏教徒が復讐を考えるなんてよくない。隣家の人を赦そうと思いました。 彼は、蔵書、研究論文、ノートは、自分で「焼いた」のだと思おうとしました。 しかし、どんなにしても、そういうふうには思えません。 あれは「焼かれた」のではなく、自分で「焼いた」のだ、といくら自分に言い聞かせても、それは事実とは違いますから無理があります。 彼は悶々とした日々を送っていました。 ところが、ある日、安田氏はふと思いました。あれは、ただ、「焼けた」のだ。 「焼かれた」のでもなく「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」のだ。 そう思うことで彼の心は鎮まってきたという。 (諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店 176ページより引用) このエピソードは森田理論と関係があります。 「焼いた」というのは、自分の本当の気持ちを偽ってごまかそうとしています。 そしてなんともやりきれない不快な感情をなくしたり軽減させようとしています。 事実を無視して観念で心の平穏を得ようとしていますので、事態は一向に好転しないで、むしろ悪くなってしまいます。 こう言うのは心理学では、合理化といいます。 「焼かれた」というのは、他に責任を転嫁して、どう責任をとってくれるのだと相手を追い詰めるやり方です。 この心理は蔵書、研究論文、ノートが焼けたのはもはやどうでもよい。 それよりもどれだけ損害賠償を請求できるだろうか。 できるだけふっかけて、なんなら弁護士を立ててひと財産を作ってやろう。等という風に展開してくる。 森田理論では、これは「純な心」ではないといいます。 「純な心」を思い出してみることを勧めています。 「おしいことをした。残念だ」という初一念を思い出してみることです。 その気持ちを味わってみることです。 その次に隣人をうらめしく思う気持ちが出てきますが、それは初二念、初三念といわれるものですから、この際無視することです。 ポイントは初一念を思い出して、初一念から出発することです。 そうすると、焼けてしまった蔵書、研究論文、ノートに気持ちが向いていますから、どうすれば今後の研究に被害を最小限にとどめることができるだろうかと考えられるようになります。 その過程で、自分の研究成果を振り返ってみることになり、もう一段階高いステップに昇れることだってあり得ます。 「焼けた」というのは事実そのものを見て、それが悪いとかいいとかの価値判断をしない。 事実を受け入れ、事実に素直に従うというものです。 その事実は心に大きな痛手を与えていますが、時間が経てば少しずつ薄まっていくものです。 何よりも心の葛藤がなくなりますので一番安楽な道を歩んでいることになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.31 20:18:14
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