カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
諸富祥彦氏は「人生を半分あきらめて生きる」(幻冬舎新書)という本の中で、「脱同一化」について説明されている。
これは一言でいえば、自分を否定する気持ちをただそのまま、認めて、眺めるということだそうだ。 この方法は、元々、仏教の瞑想法、特にベトナム禅のマインドフルネス瞑想から生まれたものだといわれている。 自分の中から生まれてくるすべての想念に対して、それがどんなものであれ、すべて「ただ、そのまま、認めて、眺める」姿勢を持ち続けることで、どんなにつらく激しい気持ちであれ、それは自分とイコールではなく、自分の一部でしかないことを自覚的に体得していく方法です。 たとえば、「こんな私じゃ、だめ」「こんな私は、嫌い」という思いが湧いてきたら、「そうなんだね。わかったよ」とただそのまま、認めて、眺める。 そう言われて、「こんな嫌な自分のことを認めるなんて、できない」という気持ちが湧いてきたら、その気持ちも、「そうなんだね。わかったよ」と、ただそのまま認めて眺める。 こうやって、どんな自分が出てきても、「ただそのまま、認めて、眺める」のをたびたびひたすら繰返していると、このような落ち込む気持ちと、それを眺めている自分とは別であること(脱同一化)、それを眺めている自分こそ自分であり、落ち込んだ気持ちはどれほど強烈であれ、それは自分のごく一部にすぎないことがジワーッと自覚されてきます。 すると、自分の気持ちと自分自身の間に自ずと「距離」(空間・スペース)が生まれてくるのです。 これは腹立ち、イライラ、不安、恐怖、違和感、不快感などの感情の対応法の一つとして考えられたものだと思う。 そういうイヤな感情を客観的に見て、距離を置いて眺めるということでしょうか。 森田理論ではそれらは自然現象である。自然現象は人間の意思の自由は効かない。 自然現象はそのままに受け入れる。 好むと好まざるにかかわらずそれしか対応方法はないといいます。 そんなことをしたら、押しつぶされることになるのではないかという強烈な不安が襲ってきます。それに対しては、すべての自然現象には必ず流れと動きがある。 じっと留まっていればそれらに押しつぶされてしまうでしょう。 でも動きと流れがあれば、次第に薄まってゆき、無意識の領域に押しやられてしまう。 そのことは、たとえば方丈記で鴨長明が見事に説明している。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」 客観視するというのは観念では理解できますが、実行は難しいのではないでしょうか。 不安や不快感などに対しては、やりくりだけはしないという強い意志を持って、時間が経過するのを待つ。というのがよいのかなと思います。 その間やるべきことはいくらでもあるわけですから、不安や不快感を抱えたまま、それらに取り組んでいく。という森田理論はスッキリと納得ができるように思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.06.02 23:17:06
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