カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
ジャングルや山岳地帯に住む少数民族は、我々の目から見れば、貧しい暮らしをしているように見えます。それは私たちが高度に文明化された世界と比較しているから感じることではないでしょうか。
彼らは毎日畑で働き、家族とともにつつましい生活をして、近所の人たちと助け合いながら生活をしています。比較していないので、それしかないという生活です。森田でいえば、なりきっている状態です。 比較しないで、なりきった状態にあると、苦しみはありますが、悩みは発生しません。 私たちは自分の容姿、性格、能力、存在価値、境遇、環境などについて、常に人と比較しています。 人と比較して、自分の価値は上なのか、下なのかを推し量っているのです。 上なら安心して人を見下したりします。劣っていると劣等感を感じて落ち込んでいます。 落ち込んでいるだけではなく、劣っている点をなんとか人並みに押し上げようと悪戦苦闘します。 これは劣っている点はよくないと価値判断して、否定しているからです。 これは他人を否定するか自分を否定するかの違いはあっても、どちらも否定しているのです。 本来自分と他人との違いは、その人の個性です。その人の持ち味です。 いいも悪いもありません。そこに厳然と存在している事実です。 大切なことは、自分に与えられているその個性を見極めて、はっきりと自覚することです。 よく観察して他者との違いを認識することがとても大事だと思います。 そういう意味で比較して違いを知ることは大変に意味があります。比較しなければ自覚できません。 問題は、その先にあります。 比較して分かった事実に対して、自分の不確かな物差しで是非善悪の価値判断をしてしまうことです。 すぐに価値判断に結びつけてしまうと、事実、現実、現状を無視するようになるのです。 森田でいう「かくあるべし」で事実を非難したり否定するようになるのです。 優越感を感じて他人を否定する。劣等感を感じて自分を否定するというのは何とも愚かなことです。 比較して自分が勝った、負けたと一喜一憂することは、自分を苦しめるだけだと思います。 比較して違いを発見するだけにとどめていると、自己洞察が深まり、将来への自分の進むべき道がおのずから見えてくるようになります。だから他人との違いにはいいも悪いもないのです。 次に、自分勝手な価値観という物差しで、優劣の判定ばかりに終始していると、好きか嫌いか、苦楽、快不快の感情が育たないということになります。 それは自然に湧き上がってきた感情を是非善悪で選別しているからです。 快の感情はいくらあってもよいが、不快な感情はすぐになくそうとしているのです。 これは自然現象に反旗を翻しているようなものです。 その努力は不毛な努力となり、エネルギーを消耗するばかりとなります。 普段からあるがままの自分を認めていれば、プラスの感情も自然に湧いてきます。 いいなあ、楽しい、うれしい、ここちよいという感情を味わうことができます。 他人と自分を比較して、すぐに価値判断してしまう癖がついている人は、自分の劣った部分を目の敵にして、人生の楽しみを逃しているということだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.06.02 07:52:58
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