カテゴリ:治るとはどうゆうことか
岡田尊司氏はアウシュビッツの強制収容所から生還したピーター・フランクルを分析されている。
強制収容所にいたフランクルは何をよりどころとして生き抜いたのか 1つは、心の中で常に愛する存在と会話をしたことである。 凍てつくような雪の中で何時間も立たされ、ひどい目に遭っている最中でも、妻ならこう言ってくれるだろうと思い浮かべ、心の中に妻の声を聞くことで、現実に追い詰められることから逃れることができたのである。 もう一つは、手掛けていた書籍を完成させたいという、将来の希望を失わなかったことである。 強制収容所を出たら、精神科医に復帰して、やりかけ中の書籍を出版することを考えていた。 そして解放されたフランクルは、過酷な体験の最終的な回復は、自らが味わった運命に肯定的な意味を見出すとともに、その体験を生き延びた者として多くの人に伝えるという使命を自覚することにあると言っている。 フランクルはまさに自らが味わった過酷な運命に、「 意味」と「使命」を見出すことで、果てしない悲しみを乗り越えようとしたのだ。 実際フランクルは、自らが体験した過酷な体験を受け入れただけではなく、自分の人生の中でこのような過酷な体験ができたことを「感謝」しているのである。 感謝の気持ちを抱くことができる人は、出口の見えない長く続く困難な日々の中にあっても、希望や意味を見出し、ささやかな喜びを支えに生き抜いていくことができる。 感謝の気持ちが持てない人は、自分ができないこと、自分に与えられないこと、自分に不利な状況を、自分に対する攻撃、敵意、束縛と受け止めてしまいやすい。 自分を否定するものとして捉えてしまうのだ。 限りある生命体である自分ということ自体が腹立たしく、不満なのである。 永遠に生き続けて、どんなことも成し遂げられ、どんなものも手に入れられる自分こそが、理想の自分なのである。 感謝の気持ちを失ってしまった人は、不利な事にばかり目が向かい、不満ばかりを感じて、自分を余計生きづらくしてしまう。 不幸せな生き方の人は、ささいな不満さえも耐え難いと感じ、周囲に責任を転嫁し、攻撃を加えようとする。そのことでいっそう不幸の悪循環を生んでしまう。 感謝の気持ちを持てる人は、不幸な出来事を決して自分を否定するものとは受け取らない。 そうした困難や不愉快なことさえも、こうして与えられていることには何か意味があり、それは1つの恵みなのだと考えるのである。 (「生きづらさ」を超える哲学 岡田尊司 PHP新書 236ページから247ページ要旨引用) 生活の発見会では、「努力即幸福」ということが言われる。 集談会の全国展開に尽力された長谷川洋三氏は、 「感謝即幸福」と言われている。 神経症に陥り、いうにいわれない苦痛を体験してきた神経質者が、乗り越える過程で、この神経症の体験は、私の人生の中でとてもよい経験であったと感謝できるようになる。 乗り越える過程で森田理論にも出会うことができた。これが人生について洞察を深めるきっかけになった。多くの優れた仲間と知り合うこともできた。 もし神経症に陥ることがなかったならば、神経質者の生き方などを考える機会はなかっただろう。 さらに神経質性格者としてこの世に生を与えてくれた両親に感謝する。 人間としてこの世に存在できたことに感謝する。自分に関わりあってくれた人にも感謝する。 感謝の気持ちを持てるようになった人は、 「かくあるべし」から下目線で現実を見ることはしなくなる。 どのような過酷で理不尽な現実、現状、事実であっても、現実に起こった事は何か大きな意味があり、それは自分にとって大きな恵みだと考えることができるようになるのである。 神経症を克服した段階では、自分や他人、身の回りに起こる理不尽な出来事に対して、批判や否定をしなくなり、感謝の気持ちが自然に湧き起こってくるようになるのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.02.21 06:30:10
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