カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
親鸞の弟子の唯円が書いたとされている歎異抄に次のように書いてある。
善人なおももて往生をとぐ、いわんや悪人をや これだけでは何を言っているのが全く分からない。 唯円は次のように説明している。 善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさらである。 なぜなら善人は自分の力を過信しがちだが、自分の愚かさに悩み、絶望する悪人のほうが、大いなる力にすがるしかなくなるから、救われるのも当然なのだ。 続いて、 人は知恵や能力、努力だけでは、決して心の安らぎに達しない。 その無力さを知り、自然のあるがままの仏の手に身を委ねた時、初めて人は救われる。 私は仏教のことは何もわからないのですが、森田理論に通じるとこがあると思いますので、私見を述べてみたい。 ここではっきりしているのは、善人よりも悪人のほうが先に救われるという事である。 言い換えれば、悪人のほうが葛藤や苦悩が少ない生き方ができると宣言している。 ここで言われている善人や悪人は世間一般に思われているイメージとは全く異なる。 ではここでいう善人とはどんな人のことを言うのか。 自分は世のため人のために役に立つ行動をとっていると自負している人のことだろう。 確固たる理想主義的な観念優先の思想を身に着けて、それを自分にも他人にも振りまいている人のことをいうのではないか。 森田でいう「かくあるべし」を前面に押し出している人のことをいうのではないか。 無知で救いようのない人をなんとか立ち直らせてやりたいなどと思っている人である。 いわゆる人格者といわれるような人である。 次に悪人とはどんな人なのだろうか。 悪人は俗世で罪深いことを繰り返してきた。謝っても謝り切れない。 などと罪悪感を持っている。つまり自己内省する力のある人のことをいう。 一般的には自己嫌悪、自己否定しながら生きている。 また命を何とか繋いでいくだけで精いっぱいの人。 夢や目標などには考えが及ばないような人。 現実、現状、事実を認められないのは、善人と同じある。 葛藤や苦しみは強い。だが善人と違って「かくあるべし」を自分や他人に押し付けていない人のことを言っているのではないか。そのようなことを考えるゆとりのない人なのである。 悪人の場合は、「かくあるべし」を持っていないので、事実を素直に認めて受け入れるという事になると、それだけですぐに救われる。 「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるというのは、事実を否定するのではなく、事実をまるごと受け入れますよと宣言しているようなものだ。 自分の性格、容姿、能力、環境など変革することができないものは、謙虚にすべてを受け入れて、そこを出発点として生きていきますと自分に言い聞かせているようなものだ。 森田理論いうところの「事実本位」生き方が、葛藤や苦悩を軽減する生き方なのですという事を教えてくれていると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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