カテゴリ:「かくあるべし」の発生
森田先生は尊敬語、謙譲語の誤った使い方に手厳しい。
豊島園の池には、「金魚を可愛がってあげて下さい」という立札がある。 近来は敬語や稚語の使い方が全く滅茶苦茶である。 ラジオの講演などでも、文学博士などという人が、随分、民衆におもねるような不用意な言葉を使って、はなはだ不愉快になることがある。 この場合は、「可愛がってやってください」というべきではありませんか。 私の家でも、女中などが、「魚屋がいらっしています」などというかと思うと、「先生が来たよ」とか、知らずしらず口からのでたらめでいっている。 朝日新聞の相談欄でも、山田わかさんが、「お子さんを世話してあげなさい」という風に書いてある。教養のある人でも、近来はこんな言葉を正しい事と思っているのであろうか。 これは「お子さんを世話しておやりなさい」「お母さんを世話してあげなさい」という区別が、日本語にはあるのではあるまいか。(森田全集 第5巻 669ページ) 日本語の意味が通じればそれでよいという人は、言葉使いに目くじらを立てておられる森田先生の発言は眉をひそめるものかもしれません。 また適切に使い分けているかというと、どうも心もとない。 森田理論と何か関係があるのでしょうか。 日本語には、昔から尊敬語や謙譲語や丁寧語を使い分けることが重要視されています。 尊敬語は、先生や目の上の人を敬う気持ちを表現する敬語です。 謙譲語は、自分がへりくだることで、目上の相手に対して敬う気持ちを表現します。 たとえば、「来る」という言葉を、尊敬語でいうと、「先生がいらっしゃる、先生がお見えになる、先生がお越しになる、先生がおいでになる」という表現になる。 これを謙譲語でいうと、「私が参りましょう、私が伺いました」ということになる。 「食べる」ということは、尊敬語では「先生が召し上がる、先生がお食べになる」となる。 謙譲語では、「いただきました、頂戴しました」となります。 尊敬語と謙譲語が逆になるということは、先生、先輩、目上の人をことさらに敬っていないということになります。友達感覚、目下の人と同じように考えている節がある。 反対に友達や子供、部下や目下の人に対して尊敬語を使うということは、相手を法外に持ち上げて、自分がよく見られたいとか利得を得ようという下心が垣間見れる。 使い方がでたらめということは、大切に取り扱うべきものと、普通に取り扱うべきものとの感覚が麻痺していると言わざるを得ない。こうなりますと先生や先輩はいい気がしない。 森田先生は、先生、先輩、監督、リーダー、コーチ、親などは経験を積み重ねて、知識も持っている。自分をよくしようと思ってくれている人たちである。 そういう人は最初から尊敬すべき相手ではないのか。それが人情ではないのか。 森田理論はそういう自然な感情に素直に反応する態度を身に着けようとしているのである。 自分よりも豊富な経験や知識を持っている貴重な人材を大切にして、その人たちから何らかのご利益を得るという敬いの態度を持っている人は、自然に言葉遣いも適切になる。 言葉使いひとつとっても敏感になり、尊敬語と謙譲語の使い方が適切になる。 決して逆になることはないはずだとおっしゃっておられるのだと思う。 そういう見落としがちな面に注意を払う心がけを持っている人は、元々持っている鋭い感性を存分に活用できるようになるといわれているのです。 森田理論は小さいことが気になるという特徴を逆手にとって、普段の生活の中でとことん活かしきることを目指しているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.06.03 11:07:17
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