カテゴリ:感情の法則
不安のターゲットを一つに絞り、それにのめりこみ、格闘することで神経症が発症します。
精神交互作用が強力に後押しして、アリ地獄の底に落ちてしまうと、自分一人では身動きがとれなくなります。 逆に言えば、神経症に陥らないようにするためには、一つの不安に関わり合うことをやめて、広く浅く多くの不安に平等に関わり合うという姿勢を維持すればよいということになります。 たとえば、対人恐怖症の人は、学校や会社で人の思惑ばかり気にしています。 全神経を他人が自分をどう取り扱うか、どう取り扱ったかに集中しています。 非難、否定、叱責、からかい、バカにされる、無視されることをものすごく警戒しています。 他人の評価に一喜一憂しているわけです。 それが生きていることのすべてになっています。 考えてみてください。このとき他のさまざまな不安は全く蚊帳の外になっていませんか。 たとえば、奥さんの仕事や家事の悩み、子供とのふれあい、親の健康状態、近所付き合い、仕事の問題や課題、家の掃除、洗濯、整頓、車の洗車、家の修理、畑の手入れ、集談会の手伝いなどに神経が向いているでしょうか。 そんな不安にも平等にかかわりあっていれば、神経症にはならないと思います。 自分の状態が、対人恐怖症で最悪の時に、そんなことに関ることなんてできないでしょうという人が多いのではないでしょうか。ふとん上げも奥さんにやってもらっているという人は最悪です。正直なところ、これは症状で苦しんでいた時の自分です。 実はここで大きな認識の間違いをおかしているのです。 悩んでいる本人は、対人的な不安に全エネルギーを集中して、不安を無くしたり、軽減させることが、何はさておき、一番肝心だと思っています。それ以外のことは考えられない。 この方向は、対人恐怖症がなくなるのではなく、ますます取り返しのつかない迷路にはまり込むことになるのです。 普通に生活している人は、不安は次々に沸き起こってくるようになっています。 「浜の真砂は尽きるとも、不安の種は尽きることなし」と言われるように、不安や恐怖、違和感、不快感が湧き起こってこなくなったとしたら、それはまともな人間とはいえません。 不安の取り扱いを少し変えるだけで、神経症とは無縁になります。 それは一つの不安にとりつかれて、悪戦苦闘する方向ではありません。 むしろその不安を掘り下げないで、それを抱えたまま次の不安に飛び乗っていくことです。 そんな調子で次から次へと湧き上がってくる不安に飛び乗っていく。 そして解決可能な不安には、その都度手を付けて処理する。 手ごわいなと思ったら、その不安をメモしておいて、いったんは保留にする。 あとで時間があったら、考えてみましょうという気持ちでよいのです。 ここで肝心なことは、不安はたくさん湧き上がってくるので、いちいち引っかかっていては身が持たないと認識することです。その方向を目指すと容易に神経症をおびき寄せます。 とにかく一つの不安にとらわれて、それを深堀してしまうことが問題なのです。 時間はどんどん流れていきます。年配の人はお気づきだと思いますが、年を取るにしたがって、1年という時の流れはどんどん早くなります。 今後20年か30年か、どれだけ生きられるか分かりませんが、いづれにしてもあっという間です。「夏草や 強者どもが 夢の後」という俳句がありますが、一つの不安に格闘していくよりも、次々に現れては消えていく不安に次々と飛び乗って、生活を前進させて、人生をより深く楽しむ方が有益ではありませんか。 もし認識違いをしておられる方がいらっしゃいましたら、早めに認識を改めましょう。 森田は意識化された症状を、水に流して無意識化させる理論になっているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.09.14 21:29:15
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