カテゴリ:森田理論の基本的な考え方
森田先生の言葉です。
神経質は机上論の屁理屈をおしすすめているうちに、病の悩みや死の恐怖という一面のみにとらわれ、動きが取れなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮ということに気が付いたのを「心機一転」といい、今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを「悟り」というのである。 (森田全集第5巻 705ページ) 「心機一転」するには、森田理論学習によって可能となります。 単元でいうと「欲望と不安」「神経症の成り立ち」あたりを学習すれば自然に分かるようになります。 「神経症の成り立ち」では、最初は誰でも持っているような不安が、不安にとらわれることにより、注意と感覚の交互作用が作動し始め、単なる不安がどんどん肥大化し、ついにアリ地獄へと落ちて行ったことが分かりました。ここでは精神交互作用が問題になります。 「欲望と不安の関係」では、この2つは本体と影のような関係にあることが分かりました。 神経症と格闘している人は、自分の影がゴミのように見えてくる。 イライラして大いに気になり、すぐに箒で履いてゴミ箱に収納しようとしている。 傍から見ている人は、あの人は頭がおかしくなってしまっているように見えるが、本人はそのことに全く気がつかない。ますます戦力を増強して、不安を一掃しようとしている。 不安の方からすると、大人に小さな子供が相撲で勝負を挑んでいるように見えてくる。体力がつくまで待てば勝負になるかもしれないが、今現在の状況では勝敗の行方は最初から分かっている。 無駄なことにエネルギーを投入しているとしか思えない。 森田理論を学習すると、その考え方は間違っていたことが分かりました。 不安と欲望はコインの裏表の関係にある。 2つの関係をどう調和させるかという方向でエネルギーを使うことが理にかなっている。それぞれを単独で取り上げて議論してもあまり意味がない。 目指すべき方向は、生の欲望の発揮を前面に押し出すことを優先する。 それだけでは、うっかりミスや重大事故が発生する可能性が高まるので、そうならないために不安を大いに活用して、生の欲望の暴走を抑止する。 これは自動車のアクセルとブレーキの役割とよく似ている。 目的地を目指すためには、どうしてもアクセルを踏み込んで車を前進させる必要がある。 ところが二車線、障害物、赤信号、交差点、カーブ、下り坂ではブレーキを作動させて、安全運転を心掛けないと事故を起こす。 目的地に到達できないばかりか、その後始末のために大変な苦労を強いられます。アクセルは必要不可欠ですが、安全運転のためにはブレーキを活用ないと、目的地に到着することはできない。 森田先生は理屈が理解できただけでは心もとないといわれています。 今度は生きるために、火花を散らして働くようになることが大切であるといわれています。 不安を仲間に引き入れ、生の欲望の発揮に向かって実践・行動する必要がある。 車のタイヤでいうと左右のタイヤが同じ大きさであるということが肝心です。 理論のタイヤはトラック並みの大きさで、実践や行動のタイヤは軽自動車のタイヤを取り付けていると、まっすぐに前進しません。 軽自動車のタイヤの周りを、トラックのタイヤがグルグル回るようなことになります。こうなりますと、観念中心の悪循環が始まります。元の木阿弥になります。 理論が小さいタイヤの時は、実践や行動のタイヤも小さいままの方がよいのです。 理論のタイヤが大きくなるたびに、実践や行動のタイヤもそれに合わせて、付け替える必要があるということです。 つまりステップアップを意識して、バランスをとることが大切になります。 こういう方向で努力すれば、神経症でのたうち回ることはなくなります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.01.25 06:29:01
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