カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
この言葉は私が尊敬している玉野井幹雄氏の言葉です。
この言葉は玉野井氏の闘病体験と関係があります。 玉野井さんは、10年間は老人性うつ病で苦しんだといわれる。 その前に対人恐怖症で30年間も苦しんだといわれる。 対人恐怖症はその後良くなったのですが、その時のキーワードが「地獄に家を建てて住む」ということだったそうです。 玉野井さんは、「症状があるままやるべきことをやってきた」にもかかわらず、対人恐怖症の苦境から抜け出すことができなかった主な原因は、どうしても「不快感がなくなることを期待する心がなくならなかった」からであると説明されています。 その心がなくならないと、すべての行動が「不快感をなくするための手段になってしまって」、つねに結果を期待することになりますから、うまくいかないわけです。 そのために「森田」がいつも言っている「あるがまま」とか「事実本位」とか「目的本位」という言葉も、一時的には効果があるような気がしましたが、本当のところを体得することができず、問題を根本的に解決するには、ほとんど役に立たなかったのであります。 そういう苦しい状況が永くつづいた末に、ようやく自分の中から最終的な結論のようなものが出てきました。 それは、「どんなことをしても、この苦しい状況からは抜け出すことはできない」「このまま、できるだけのことをして、命のあるかぎり生きるしかない」というものでした。 そのときの私は、もう力尽きていましたので、それが如何なる結果になろうとも、それに従って生きるしかないと覚悟せざるを得ませんでした。 そしてやむを得ず、「自分の救いを断念して、自分がどのようにして駄目になっていくかを見届ける態度になった」のであります。 (いかにして神経症を克服するか 玉野井幹雄 自費出版 47ページ) この話を基にして私の対人恐怖症を振り返ってみました。 私の症状は他人から非難される、否定される、バカにされる、からかわれることに振り回されるということでした。 そういう場面が予想されると、すぐに逃げ出してしまうのが問題でした。 その裏には、良い評価をされたい、一目置かれるような人間になりたいという強い欲求がありました。 私は玉野井氏が言われるような覚悟を決めることができませんでした。 それは、逃げ回りながらも、何とかなっていたからです。 つまり絶体絶命の気持ちになれなかったのです。 そういう状況では「地獄に家を建てて住む」というような気持ちにはなれません。 私が症状から解放されるきっかけは、森田全集第5巻のなかで森田先生の宴会芸の話を読んだ時です。森田先生が余興で鶯の綱渡りという芸を披露されたというのです。 (森田全集 第5巻 293ページ) 私は直感的にこれはいけると思いました。 そういう視点で森田全集第5巻を読んでみると、例えば大岡越前の三方一両損の寸劇の話も紹介されていました。 そのとき私は森田理論を理解することばかりにエネルギーを使うよりも、みんなが喜んでくれるような一人一芸の習得にかけて見ようと思ったのです。 そのときは、この取り組みが症状の克服に役立つものとは思いませんでした。 森田理論を何年も学習しているのに、はかばかしい成果がないので仕方なく方向転換をしたという感じです。 今考えると、この取り組みをしているときは神経症のことは忘れていました。 今まで神経症にどっぷりと漬かっていたのですが、症状以外のことに注意や意識を向けたことが大きかったと思います。 また、この取り組みは、利害関係のない温かい人間関係を作ることができました。 対人恐怖症の私にとっては水を得た魚のような気持になりました。 私の場合、玉野井さんが言われる「救いを断念する」ということは、一人一芸に取り組むことで、意識しないうちに結果的に達成されていたのではないかと思っております。 なお一人一芸は、獅子舞、浪曲奇術、どじょう掬い、腹話術、アルトサックス、傘踊り、チンドン屋などです。どれも名人芸までには至りませんでしたが、神経症の克服には役立ちました。 これ等を携えて老人ホームの慰問、地域のイベントなどには数多く参加しています。 山口県角島大橋 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.06.02 06:39:10
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