森田先生は強情も盲従も問題ありと指摘されています。
「強情」な人は、森田先生が指導すれば、すぐにそれに取り組んでみると言うのではなく、家に帰って考えてみると言う。
そういう人は森田先生が神経症の治療の分野ではすぐれた医師であるということを忘れている。
このように頭の中で納得して決心するとか、自信がついてから取り組もうと考えている人のことを言う。
「こんなに頭が悪くてはできるはずがない」と短絡的に考えて手をつけない人のことを強情というのである。
強情な人は「かくあるべし」が強い人である。
「○○しなければならない」「○○してはならない」と自分の考えを周りに押し付けることが多くなります。
指示、命令、強制、脅迫、非難、批判、否定することが多くなります。
人間関係は当然悪くなります。
それはアドラーの言う横の人間関係ではなく縦の人間関係になっているからです。
「盲従」と言うのは、森田先生の言われたことを万能の神様のように信じて、馬車馬のように突進する態度のことです。
森田先生は当時入院されていた水谷啓二氏に、皆がいる前で、そこで三回ぐるぐる回ってお辞儀をしなさいと言われた。
水谷氏は恥ずかしいことだと思いながらも森田先生の言われる通りに行動した。
まわりにいるひとたちがクスクスと笑った。
それを見て森田先生は、だから君はダメなのだと言われた。
普通の人は「みんながいるのでそんな犬のようなマネはちょっと出来かねます」と言ってモジモジするはずだと言われている。
(森田全集第5巻 266から268ページより要旨引用)
盲従というのは自分の意志というものは何もない。相手の言いなりになっている。
相手の無理難題の押しつけに対して、不平不満をいだきながらも受け入れてしまう。
こういう人は相手からの「かくあるべし」の押しつけに対していつも服従している人です。
相手からすれば自分の周りにこういうイエスマンばかりになるととても気持ちがよい。やりたい放題になります。
盲従する人は、心の底では反発しているのに、相手の無理難題を受け入れてしまいます。ストレスだらけになります。
不平不満でいっぱいになり、被害者意識でいっぱいになります。
そのうち相手の足を引っ張ることばかりを考えるようになります。
盲従は支配ー被支配の縦の人間関係になります。
いずれ対立して最後には破綻します。
強情も盲従も「かくあるべし」の押しつけという視点から見ると、どちらも同じようなものです。
「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活態度を身に着けた方が得策です。