図書館の放出本コーナーで『ぼくの翻訳人生』という新書を、手にしたのです。
巻末の著者来歴を見ると、東大仏文科卒で、共同通信社の記者、ワルシャワ大学の日本語学科講師などを経て翻訳家になったようです。
とにかく、米国留学を中退し、ポーランド文学、ロシア文学を専攻するというヘソ曲がり具合が大使のツボを打つのです。
【ぼくの翻訳人生】
工藤幸雄著、中央公論新社、2004年刊
<「BOOK」データベースより>
翻訳を手がけて半世紀。著者はポーランド語翻訳の第一人者であり、ロシア語、英語、仏語からも名訳を世に送り出してきた。満洲での外国語との出会い、占領下の民間検閲局やA級戦犯裁判での仕事、外信部記者時代の思い出。翻訳とは、落とし穴だらけの厄介な作業だという。本書は、言葉を偏愛する翻訳者の自分史であると同時に、ひとりの日本人の外国語体験の記録でもある。トリビア横溢の「うるさすぎる言葉談義」を付した。
<読む前の大使寸評>
巻末の著者来歴を見ると、東大仏文科卒で、共同通信社の記者、ワルシャワ大学の日本語学科講師などを経て翻訳家になったようです。
とにかく、米国留学を中退し、ポーランド文学、ロシア文学を専攻するというヘソ曲がり具合が大使のツボを打つのです。
rakutenぼくの翻訳人生
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「うるさすぎる言葉談義」で日本語が語られているので、見てみましょう。
p241~242
■日本語は論理的でない?
日本語がなんと、「論理的」でないとのたまった文学者の大物がこの国に少なくともふたりいた。別々に物した『文章読本』にはっきりとそう書いた。よくもその「非論理的」な日本語で論理に混乱をきたさず、複雑な小説が書けたものである。驚きではないか。
ご両人とは谷崎潤一郎と三島由紀夫だ。
そもそも「論理的」でない言語を用いながら、立派な小説を書き上げ、世に迎えられた・・・その苦心惨憺ぶりが自慢ゆえに、ふたりは日本語の「非論理性」をあげつらったのではない。そんな哀れな日本語を用いて、いかなる文章を綴るべきか・・・その秘法を説く著書が、両大御所の『文章読本』である。
それにつけても、「非論理」呼ばわりはひどい、日本語を敵視している。まだしも「理詰めの表現には不得手なのが日本語」ぐらいの嘆きにとどめておけば、よかろうに。両先輩の勇み足をわれわれは慨嘆する。
才女の名を奉るべき斉藤美奈子さんの快著『文章読本さん江』(筑摩書房)の巻末には「引用/参考文献」として、「文章読本・文章指南書関係」と分類されるものだけで81点の著作物が名を連ね、別に「文章史・作文教育史関係」の文献は23点にのぼる。合わせて百冊を超える。昔流に表現するなら「汗牛充棟」のありさまだ。それでも足りない。
同書の「はじめに」を読むと、「文章読本と呼ばれる種類の本は、膨大な数が出版されています。一説によると、累積で、すでに四桁の大台に乗るそうです」とある。これら無数の類書を含む名著・駄本の陳列がいかにもめでたいとて、新装開店のパチンコ屋か歌舞伎座あたりに並ぶお祝いの花環あるいは花駕籠並みに、江戸趣味よろしく、斉藤さんは、『文章読本さん江』とご挨拶申し上げているのだ。
谷崎『文章読本』に展開された「日本語非論理説」は、戦前に読んだので忘れていたが、この説には「三島も支持し、清水幾太郎さえも肯定した」そうで、ぼくの揶揄はこの部分を根拠にしている。
三島本も清水本(『論文の書き方』)も読まなかった。ベストセラー嫌いのためであるが、たまたまぼくと同年生れの三島には『仮面の告白』ぐらいしか近づいていない。それも留学中、日本語が読みたくなりインディアナ大学図書館で、その当時は数少ない縦文字蔵書のなかから、まず谷崎の『』を愉しみ、次に三島を借り出して
さて、邪説として軽く退けたい「日本語非論理説」である。ばかを抜かせ、論理を伴わない言語など絶対に存在しない。
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ウン 工藤さんは両大御所の「日本語非論理説」を咎めているだけで、別にご両人に恨みはないようですね♪
『ぼくの翻訳人生』4:クール・ジャパンのような「日本語」
『ぼくの翻訳人生』3:第二外国語の学習
『ぼくの翻訳人生』2:翻訳家になる前の就職活動
『ぼくの翻訳人生』1:フランス文学体験