図書館に予約していた『方丈記私記』という本を、待つこと1週間でゲットしたのです。
下賀茂神社の中に再現された方丈を見に行ったミーハーな大使であるが・・・
やや斜に構えた鴨長明が気になるのでおます。
【方丈記私記】
堀田善衛著、筑摩書房、1988年刊
<「BOOK」データベース>より
1945年3月、東京大空襲のただなかにあって、著者は「方丈記」を痛切に再発見した。無常感という舌に甘い言葉とともに想起されがちな鴨長明像はくずれ去り、言語に絶する大乱世を、酷薄なまでにリアリスティックに見すえて生きぬいた一人の男が見えてくる。著者自身の戦中体験を長明のそれに重ね、「方丈記」の世界をあざやかに浮彫りにするとともに、今日なお私たちをその深部で把えて放さぬ伝統主義的日本文化を鋭く批判する名著。毎日出版文化賞受賞。
<読む前の大使寸評>
下賀茂神社の中に再現された方丈を見に行ったミーハーな大使であるが・・・
やや斜に構えた鴨長明が気になるのでおます。
<図書館予約:(10/26予約、11/02受取)>
amazon方丈記私記
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戦時中の強制疎開なんかが語られているので、見てみましょう。
p70~73
<四 古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず>
3月10日の東京大空襲から、同月24日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった。しかし、読んで、とはいうものの、この方丈記なるもの、字数にして九千字あまり、四百字詰の原稿用紙に書き写してみても、せいぜい22枚くらいの短いものでしかない。だから、私はほとんどこれを暗唱出来るほどに、読みかえし読みかえししたわけであった。
しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読みかえさせたものであったか。
それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、と感じたからであった。
また、現実の戦禍に逢ってみて、ここに、方丈記に記述されてある、大風、火災、飢え、地震などの災映の描写が、実に、読む方としては凄然とさせられるほどの的確さをそなえていることに深くうたれたからでもあった。またさらにもう一つ、この戦禍の先の方にある筈のもの、前章及び前々章にしるした新たなる日本についての期待の感及びそのようなものは多分ありえないのではないかという絶望の感、そのような、いわば政治的、社会的転変についても示唆してくれるものがあるように思ったからでもあった。政治的、社会的転変についての示唆とは、つまりは一つの歴史感覚、歴史観ということでもある。
また、治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都に定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。
されど、とかくいふかひなくて、帝より始め奉りて、大臣・公卿みな悉く移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ世に余されて期する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。
人の心みな改まりて、ただ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし。西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず。
その時おのづから事の便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、程狭くて条里を割るに足らず。
これは要するに政治的災映であり、とりわけて「されど、とかくいふかひなくて」云々以下の官吏たちが、福原に満足に住居のあてすらなくて、あわてふためいて続々としてとにもかくにも引越して行くところは、戦時中の当時としては、いやでも応でも疎開とそれにともなう面倒を思わせ、「軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。」と言われれば、家々が防火用に強制破壊、つまりは間引きのために破壊されてどうと音をたてて地に倒れるさまを思わせた。
これらの強制疎開、建物の強制疎開とその頃呼ばれたものであったが、そういう仕事には、いたいけな中学生たちが駆り出されて、家々のぶっこわし作業に従事していたものであった。まことに、「地は目のまへに畠となる。」であって、こわされた家々のあと地は、たちまち耕されてカボチャ畠となったものであった。
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再現された方丈