図書館で『コリアン・ジャパニーズ』という新書を、手にしたのです。
著者は韓国を代表する知日派ジャーナリストとして、日本の新聞・テレビにも登場することで知られるそうである。ということで、その知日派がレポートする「在日」が興味深いのです。
【コリアン・ジャパニーズ】
池東旭著、角川書店、2002年刊
<「BOOK」データベース>より
いままで誰も指摘しなかった「脱・在日コリアンのすすめ」を大胆に提言。グローバル化が否応なく加速度的に進む日本にあって、在日コリアンのこれからのありようの模索を通して、国際社会とは何かを探る一冊。
<読む前の大使寸評>
著者は韓国を代表する知日派ジャーナリストとして、日本の新聞・テレビにも登場することで知られるそうである。ということで、その知日派がレポートする「在日」が興味深いのです。
amazonコリアン・ジャパニーズ
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「第3章 歴史から見た在日」から人さらい戦争について、見てみましょう。
p83~
<四 拉致された人々の悲劇>
■陶工の連行
数知れない被拉致人たちの中で、歴史に名をとどめているのは陶工である。日本軍が撤退する際連行された陶工たちは、日本各地に散らばった。彼らは、その後異国に定住し、陶磁器づくりに携わった。この陶工たちが始めたのが萩焼、上野焼、八代焼・高取焼・有田焼、伊万里焼・平戸焼・薩摩焼などの焼き窯である。これらの陶工のほとんどは無名のまま異国の歴史の中に埋もれた。有田焼の始祖・李参平、薩摩焼の伝統をいままで守っている沈寿官などは、歴史にその名をとどめた希なケースである。
鹿児島の苗代川にいまも住む陶工たちは、被拉致人たちの集落が四百年間そのまま残っている稀有な例だ。朝鮮侵略に出兵した島津軍に連行された朝鮮人は、苗代川での集団生活を強制され、焼き物に従事した。その集団生活の中で朝鮮の風俗・習慣はそっくり子孫たちに伝えられ、それが明治維新まで続いた。その中心人物だった朴平意は、庄屋役に任命され、薩摩焼を創始した。
これら朝鮮人陶工たちが連行されてから二百年近い歳月が流れた後、文人・橘南渓がここを訪れ、「一郷みな高麗人なり」と書いた。南渓はここの庄屋に、「異国に暮らしすでに数代を経て、もう故郷を思い出すこともありますまい」と訊ねたところ、
「故郷忘じがたしと誰人のいい置ける事にや」
という思いがけない返答だった。庄屋は、
「今にても帰国の事ゆるし給うほどならば、厚恩を忘れたるには非ず候えども、帰国致いたき心地候」
と消え難い望郷の真情を吐露している。
(中略)
■ジュリア・おたあ
被拉致人でも女性の場合には、武将の側室として連行されたがゆえに名前が伝わっているようなケースはあるが、ほとんどの場合は歴史の中に埋もれている。
平戸には、「小麦さま」と呼ばれた朝鮮出自の女性の苔むした墓がある。平戸藩主・松浦鎮信が朝鮮の戦場から連れて帰り、側室とした女性の墓だ。四国大方町にも朝鮮から連行されてきた無名の織女の墓がある。正面に「朝鮮国女墓」と書かれ、側面に「天正年中来」「卒年不知」と刻まれている。
(中略)
カトリック教会で聖女にされ、いまだに崇敬されている「ジュリア・おたあ」も出自は朝鮮だ。ジュリアは1952年の第一次侵攻のとき、平壌郊外で小西行長に拾われた。歳のころは三歳ぐらいで、胸には十字架が下げられていたという。行長は彼女に「ジュリア・おたあ」という洗礼名を授け、居城の宇土城に送った。
その後、彼女は伏見の小西屋敷で育てられた。関ケ原の戦いで小西家が滅びると、彼女は江戸に連行され、江戸城では秀忠夫人に仕えるが、その容色が家康の目に留まり、駿府へ呼ばれる。しかし、1612年、キリスト教を禁じた禁教令に触れ、伊豆大島、さらに新島、神津島に配流された。おたあは、どこにいても信仰生活を守り、渡島四十年後に没したという。
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『コリアン・ジャパニーズ』2:「在日」の優秀さ
『コリアン・ジャパニーズ』1:宙ぶらりんの存在