ベン・シャーンの線描画が好きなので、以下のとおり復刻してみようと思うのです。
「花はどこへ行った」「ウィ・シャル・オーヴァーカム」をつくり歌ったピート・シーガーや、第五福竜丸とも関係のあったベン・シャーンは忘れがたい人でもあるのです。
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図書館に予約していた『ベン・シャーンを追いかけて』という本をゲットしたのです。
大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・
ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。
【ベン・シャーンを追いかけて】
永田浩三著、大月書店、2014年刊
<「BOOK」データベース>より
1898年に生まれ、1969年に亡くなったベン・シャーン。激動の二〇世紀を疾走したこの画家は、絵画だけでなく、壁画、写真、レコードジャケット、ポスター、舞台芸術で大きな業績を残し、さまざまな社会問題も描いた。『W・P・A・サンデー』『幼かりし日の自画像』『解放』『寓意』『ラッキードラゴン』『美しきものすべて』…。これらの作品に、わたしたちは物語を呼び起こされ、そして自分の人生を重ね合わせる。ベン・シャーンの絵は、なぜわたしたちをひきつけてやまないのか。その答えを探しに、ゆかりの地を訪ね歩いた。
【目次】
第1章 故郷リトアニア、そしてアウシュビッツ
第2章 ヨーロッパで見つけたもの
第3章 アメリカのアート・ジャーナリスト
第4章 世の不公正にあらがう
第5章 ベン・シャーンとヒロシマ
第6章 抵抗の画家と韓国を結ぶもの
第7章 ベン・シャーンを愛する国、日本
<大使寸評>
大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・
ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。
<図書館予約:(8/17予約、8/22受取)>
rakutenベン・シャーンを追いかけて
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線描画に注目して、この本を借りたのであるが、この本は読みどころが多いので(その3)として、読み進めたのです。
ベン・シャーンの社会性とかクロスメディアについて見てみましょう。
<オキュパイ運動があったウォール街>p154~158
ウォール街のトリニティ教会の前の通りが、2011年にオキュパイ運動がおこなわれたところだ。
ウォール街は、アメリカ経済を守るため、壁(ウォール)をつくったことが、その語源になったいる。いまは、民衆の結集を許さないための警護の壁が築かれている。その広い空白のエリアを、中国やインドの観光客が大勢訪れる。インドのひとたちに聞いてみる。すると、格差があるのは当たり前だという答が返ってきた。中国の旅行者には、英語はまったく通じなかった。警備のひとに尋ねる。いちばん多かったときは、2000人が通りを占拠していたそうだ。ひとりのおじさんが、フルートで「アメイジング・グレース」を奏でている。箱に観光客が小銭を入れていく。
(中略)
ウォール街を占拠するオキュパイ運動は、いまの政治や社会がごく一部のひとによって牛耳られ、ほとんどのひとは置いてきぼりにされる状況に異を唱えるものだ。アメリカだけでなく、新自由主義が大手をふるう世界中で、その声は高まっている。
ベン・シャーンは、芸術家としては珍しく、政治に積極的に参加した。ローズヴェルト市の市会議員を務めたほか、ヘンリー・ウォレスの選挙応援に2回関わった。
(中略)
ウォレスは、朝鮮戦争にアメリカが加担するのは侵略だと言った。かれは熱心なクリスチャンだったが、ユダヤ人の悲劇についても積極的に発言した。しかし、そうした言動は、ほかの政治家の反発を生み、共産主義者、神秘主義者のレッテルを貼られることになる。
ベン・シャーンイは、そんなウォレスへの攻撃を知りつつあえて支持し、大統領選挙の応援に動いたのだった。
2013年、忘れられた政治家ヘンリー・ウォレスに、ふたたび光があたる出来事があった。NHKのBSドキュメンタリーで『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』の10回シリーズが放送された、大きな反響を呼んだのだ。そこでは、ウォレスの理念が高く評価されていた。オリバー・ストーンは、もしウォレスがローズヴェルトの後継者であったら、米ソが平和的に共存し、市民が過度な競争にさらされることがない、もうひとつのアメリカ、もうひとつの世界があったかもしれないと語った。
<広島の被曝者・富子さん>p158~160
5月27日。前の職場時代にいっしょに仕事をした浜野あづささんと合流する。浜野さんは、ニューヨーク大学の大学院に留学中、大学で日本語・日本文化を教える富子森本ウェストさんにお世話になっていた。ニューヨーク郊外ラグレンジヒルに住む富子さんの自宅を訪ねる。
富子さんは、1945年8月、広島で原爆に遭遇した。13歳のときだった。ガラスの破片が全身に突き刺さる祖父を、防空壕で看病したが、20日後、祖父は息を引き取った。荼毘にふすのは、富子さんの役割だった。人間を骨にするのはとんでもない時間がかかることを知った。彼女はいま、原発反対の運動を積極的におこなっている。原点にあるのは自身の広島での体験だ。
アメリカ人の多くは、原爆投下になんの痛みも感じないと言われてきた。しかし、彼女は、それは違うということを体験のなかで知った。彼女のまわりのほとんどのひとは、彼女がヒバクシャであることに深く同情する。そして、原爆投下はまさにジェノサイド、虐殺だと語る。例外は、退役した兵士たち、原爆が多くのひとを戦死から救ったと信じていると、富子さんは話してくれた。
富子さんが選んだベン・シャーンの絵は、「ラッキードラゴン」シリーズのなかの久保山愛吉さん、《ラッキードラゴン》(1960年)だった。足が細くなった姿が強烈だと言った。
富子さんには、近所にこころを許す友人がいた。ピート・シーガーさんである。富子さんとピートさんはニューヨーク郊外、ハドソン川沿いの老朽化した原発の稼動反対を叫びつづけた。
ピート・シーガーは伝説のフォークシンガー。「サッコとヴァンゼッティのバラード」「花はどこへ行った」「ウィ・シャル・オーヴァーカム」「天使のハンマー」といった曲は、たくさんのひとにカバーされ、ヴェトナム反戦運動や軍縮運動、公民権運動の先頭に立った。ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーは、ピートの背中を見ながらビッグなアーティストになっていった。ピートさんの歌はいまも、日本の脱原発運動や、沖縄の辺野古基地新設反対運動でうたわれている。
ピートさんのアルバムは多いが、初期のLPジャケットの多くをシャーンがデザインしている。
(中略)
富子さんに会ったとき、ピートさんは最愛の妻トシコさんを亡くしたばかりで、自宅を訪ねることはかなわなかった。
ピートさんがうたった歌には、サッコとヴァンゼッティ、ヘンリー・ウォレス、キング牧師が登場する。絵の世界のシャーンと歌の世界のピートさんは、価値を共有していたように思う。
2014年1月、ピートさんは亡くなった。94歳だった。生前のピートさんに会うことができなかったことは残念でならない。
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wikipediaピート・シーガーより
ピート・シーガー(1919年5月3日 - 2014年1月27日)はアメリカ合衆国のフォーク歌手である。20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。
第二次世界大戦前の1940年代から全国放送のラジオで活躍し、1950年代はじめにはウィーバーズ (The Weavers) の一員として一連のヒット作を出した。1960年代にはプロテストソングのパイオニアとして公の場に再登場し、国際的な軍縮、公民権運動を推進した。
ソングライターとしては「花はどこへ行った」、「天使のハンマー」、「ターン・ターン・ターン 」などの代表作を生み出した。スピリチュアル(霊歌)「ウィ・シャル・オーバーカム 」を1960年代の公民権運動を象徴する歌にした立役者でもある。
近年では環境問題について訴える活動を続けていた。
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物語る絵とか線描画、そして、ピート・シーガー、さらに石田徹也、アーサー・ビナードと大使のツボを突きまくるベン・シャーンであった♪
ラッキードラゴン
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線描画の達人たちより
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ベン・シャーンを追いかけて3
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ベン・シャーンを追いかけて2
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ベン・シャーンを追いかけて1