図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。
終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。
【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】
井上祐子著、みずき書林、2018年刊
<「BOOK」データベース>より
戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。
<読む前の大使寸評>
終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。
rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争
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「第3部 中国編」から占領初期の華北地方を、見てみましょう。
p154~155
<第1章 1943年華北地方取材:林重男>
1937年7月7日の日中全面戦争勃発後まもなく日本は北京を制圧し、12月には王克敏を中心にした対日協力政権である中華民国臨時政府を樹立した。1940年3月、南京で汪兆銘が中華民国国民政府(以下南京国民政府)を立ち上げると、臨時政府は華北政務委員会に改組して、南京国民政府の一部となった。
同委員会委員長には王克敏が就任し、高度な自治権をもつ同委員会が引き続き華北地方の統治にあたったが、いずれにせよ実質的な支配権は北支那方面軍が握っていた。
華北地方は、綿花や小麦などの農産物に加え、石炭や鉄、銅などの鉱山資源も豊富であり、日本は1930年代前半からその資源開発に食指を動かしていた。
日中全面戦争勃発後は北支那開発株式会社(1938年11月設立)を中心に、それらの資源を日本の手中に収めていった。アジア・太平洋戦争開戦後、南京国民政府は紆余曲折を経て1943年1月9日に米英に宣戦布告し、戦争遂行のために日本に協力することを発表する。このころ戦局は悪化してきており、日本は華北資源への依存をさらに強めていた。
林重男は1943年夏、『FRONT』「華北建設号」の取材のため、木村伊兵衛とともに中国に赴いた。同号では、“対米英戦争を戦うために、華北は兵站基地として再建設されなければならない”とうたい、高山、製鉄、製塩、農業などさまざまな産業をとりあげている。そのほかに青少年たちの活動や現地軍関係の写真も掲載されている。「東方社コレクションⅡ」には、この取材で林が撮影したネガ2578点がある。
<第1節 産業と労働>
前述のように『FRONT』「華北建設号」の中心テーマは、華北の資源開発と産業であり、それに関わる写真が多く残されている。図〈養蜂〉は、昌黎農場果樹園で蜜蜂の巣箱を取り出している男性を撮影したものである。同農場では、葡萄を収穫する若い女性やさまざまな果物の樹や実なども撮影されている。図〈トウモロコシ畑〉は、トウモロコシを収穫する少女たちをとらえたもの。トウモロコシは華北の主要な食糧のひとつであり、特に河北省で多く栽培されていた。
図〈塩田〉は天津の長蘆塩場で働く男性たちを撮影したもので、後ろに見えるのは野積みされた塩の山。塩は食料としてだけでなく、化学工業の原料としても大きな需要があり、華北の塩は日本にとって重要な産物であった。
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『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』1:占領初期のマラヤ・シンガポール