図書館で『写真で見る満州全史』という本を、手にしたのです。
この本には、なんかデジャビュの感があるが・・・二度借りてもまあいいかということでチョイスしたのです。
(帰って調べると、やはり借りていたので、この記事を(その4)とします。)
【写真で見る満州全史】
太平洋戦争研究会, 平塚柾緒著、河出書房新社、2018年刊
<「BOOK」データベース>より
日本は大陸で何をしようとしたのか?…「幻の帝国」の前史から崩壊後まで!満鉄・関東軍・満州事変・満州国誕生・日本人街・開拓移民団・帝国崩壊・シベリア抑留・負の遺産…私たち日本人が今知るべき歴史!
【目次】
消えた帝国を歩くー現在も姿をとどめる「満州」残影/第1章 満鉄と関東軍/第2章 満州事変/第3章 関東軍の満州支配/第4章 日本人が住んだ街/第5章 満州帝国の繁栄と崩壊
<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪
rakuten写真で見る満州全史
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どこから読んでもいいのだが、「第5章 満州帝国の繁栄と崩壊」から満州開拓移民団あたりを見てみましょう。
p154~156
<百万戸・五百万移民計画>
■武装試験移民からスタート
満蒙開拓団、あるいは満州開拓団は当初は「移民」と呼ばれた。最初の移民は満州国を成立させてほぼ1年後の昭和8年(1933)3月である。東北・北関東11県の在郷軍人会が募集した、独身男性だけの集団で約500人。全員が小銃や手榴弾を携行し、機関銃も何挺か装備しており、武装移民と呼ばれた。
入植地は吉林省チャムスの南約60キロの樺山県永豊鎮で、満州に着いてからの引率者は東宮金男だった。いうまでもなく張作霖爆殺の実行部隊指揮官だった大尉で、行政処分で予備役編入になっていた。そして、この当時は「関東軍付・吉林軍顧問」という肩書だったから、東宮の背後には関東軍が控えていた。
彼らが入植した永豊鎮は未開の原野ではなく、百戸ほどの農村で、当時は匪賊の跳梁で七十戸ほどに減っていた。東宮はそこの老若男女に、一人当たり五円を支給して追い払った。五円という価値は政府が移民隊員一人当たりに支給した1ヶ月の食事補助額に等しく、もちろんそれで1ヶ月は食べられない額である。
東宮は「民有既耕地七百町歩人家百十四戸を全部移民隊のものとする計画に対しては、満州人がかわいそうになりやや躊躇せざるべからず」と日記に書き記した(『満州武装移民』教育社)。
永豊鎮で確保した土地は既耕地七百町歩だけではなく全体で四万五千町歩あり、今の横浜市や金沢市ほどの広さである。この地は「弥栄村」と名づけられ、満州開拓の宣伝のために大いに利用された。
二回目の武装移民(五百名余り)はやはり吉林省で、依蘭県七虎力に入ったが、これはのちに地振村と命名された。
この土地は第一次武装移民のあとに設立された東亜勧業㈱が強制買収したものだった。同社は関東軍をバックにして吉林省やそこに隣接する黒龍江省の各県で強制買収を行い、全体として可耕地の約六割を獲得したという。
これほどの横暴に対して、追い出された農民たちが黙っているはずはなく、同地の徳望家・謝文東をリーダーに戴き、武装闘争に転じた。日本では抵抗発祥の地の名をとって土竜山事件と呼ばれるは、「兵力」は約1万人だった。
関東軍は一個連隊(約2500人)を投入して鎮圧につとめたが、途中で連隊長が襲撃されて死亡するほど激しいものだった。七虎力から湖南営にさがった第二次武装隊を3ヵ月にわたって包囲、関東軍もそれに対して討伐隊を繰り出し、各所で激戦が展開された。農民側は約五千人が殺されたという。
武装移民は昭和11年(1936)11月まで断続的に第五次まで続いたが、これが試験移民と呼ばれるものである。第四次からは在郷軍人会は募集から手を引き、武装もしなかった。
■百万戸・五百万人の「満州開拓団」計画
本格的な移民は「満州開拓団」と呼ばれ、当初は「五ヵ年・二万戸移住」計画のもと、一開拓団が千戸規模に拡充された。ところがこれが実現されないうちに、昭和11年(1936)6月、広田弘毅内閣は「二十カ年・百万戸・五百万人」移住の政策を打ち出した。これからが本格的な満蒙開拓団の時代に入るのである。
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『写真で見る満州全史』3:皇帝・溥儀と満州帝国p102~103
『写真で見る満州全史』2:「関東軍」の登場>p26~27
『写真で見る満州全史』1:ラストエンペラー・溥儀p102~103