図書館で『地図で見るロシアハンドブック』という本を、手にしたのです。
この本は2022年のウクライナ侵攻前に発刊されているが・・・2014年のクリミア半島侵攻には触れているので借りた次第です。
【地図で見るロシアハンドブック】
パスカル・マルシャン著、原書房、2021年刊
<「BOOK」データベース>より
ロシアの現状が一目瞭然でわかるアトラス!ウクライナ危機、国境の変化、世界の新たな均衡など、今日のロシアの地政学的利益が一目でわかる。
<読む前の大使寸評>
この本は2022年のウクライナ侵攻前に発刊されているが・・・2014年のクリミア半島内戦には触れているので借りた次第です。
rakuten地図で見るロシアハンドブック |
「ウクライナⅡ」で2014~19年のウクライナを、見てみましょう。
p133~136
<クリミア半島>
14世紀から19世紀にかけて、クリミア半島はクリミア・タタール人の手中にあった。彼らのたえまない襲撃は、1571年にはモスクワにまでおよび、数百万人のスラブ人がオスマン帝国で奴隷となった。その後、[彼らのクリミア・ハン国は]ロシア皇帝エカチェリーナ2世の軍勢に征服され、タヴリダ県としてロシア帝国に組みこまれた。
おもにロシア人が住むクリミア半島は、1924年にボリショヴィキが「共和国」(主権をもたない)からなる連邦を結成したとき、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国ではなく、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国にふくまれていた。
1954年、自身もウクライナ人であるフルシチョフは、「ウクライナ」(実際には当時はドニエプル地方のみ)とロシアの連合300周年を機に、クリミア半島をウクライナにゆずることを決めた。おもにロシア人であるクリミア半島の住人は、同じソヴィエト連邦の国にとどまっていたので、ほとんど反発はなかった。
1992年にウクライナが独立したとき、クリミア当局と住民はロシアへの帰還を求めた。ロシア議会はこれを受け入れたが、エリティンは拒否した。1990年代を通じて、クリミアとキエフの関係はきわめてむずかしいものとなった。スターリンによって中央アジアに強制移住させられた少数民族のタタール人は、この10年のあいだに自分たちの土地にもどってきた。
2014年2月21日にキエフでクーデターが起こったあと、新政権に抵抗する住民の反乱が最初に起きたのは、クリミアだった。ロシア軍の支援のおかげでこの反乱は成功をおさめる。クリミアは住民投票をおこなって3月11日に独立、16日にロシア領への編入を宣言した。ウクライナ東部のドンバスでも反乱が起こった。2014年6月、ウクライナで内戦が勃発する。
<2014年の危機とモスクワとの段階的な関係凍結>
2014年6月に前倒しでおこなわれた大統領選挙(EUの調停による2月21日の合意でまもられたただひとつの点だ)では、ペトロ・ポロシェンコが第1回投票で過半数を得て当選した。危機の中にあって、対立する両陣営と話すことができる唯一の指導者だった。西部でも東部でも、内戦の広がりをおそれていた国民は彼に信頼をよせた。
しかしウクライナは、厳しい経済状態にあった。ソ連から受け継いだ軍需産業では、まだ20万人近くが働いており、ロシアの軍需産業とも密接な関係をたもっていた。ところが、ウクライナ政府がNATOとつながりを持つ可能性があるというだけで、ロシアは共同プロジェクトをすべて中止したのである。
ウクライナのユージュノエ(設計局)=ユージュマシュ()グループは、ロシアの新型ICBM「トポル」の製造に協力することになっていたが、その計画はすぐにロシアの工場に移管された。このグループはソ連の3つの大型打ち上げロケットのひとつ、「ゼニット」も設計・製造していた。だがバイコヌール宇宙基地にも立ち入れなくなった。予定されていたブラジルとの協力関係も、資金不足から2015年に解消された。ウクライナの花形産業は壊滅させられた。
ソ連のアントノフ設計局を前身とする航空機メーカー、アントーノウは、2014年にすでに困難な状況にあった。2010年から2012年にかけて,6機しか販売していなかったのだ。
(中略)
<2019年、窮地>
2019年4月、ウクライナ政府は新たなロシアからの輸入禁止、ロシア語の使用を制限する措置、ロシアのおよそ10の出版社のウクライナでの販売禁止などを決定したのである。これに対してロシアは、ウクライナからのパイプライン管の輸入および、ロシアからウクライナへの輸出の70パーセントを占めている石油製品(40億ドル)と石炭(15億ドル)の輸出を禁止することを決定した。選挙前夜には緊張関係が頂点に達していた。
だがペトロ・ポロシェンコは2019年の4月の大統領選挙で、政治経験のないコメディアンに敗北した。ウォロディミル・ゼレンスキーは、支持政党をもたず、相手候補を支持する現行議会にはばまれながらも、73パーセントの票を獲得して大統領に選ばれた。
彼は議会を解散し、2019年7月にウクライナ最高議会選挙をおこなうことを決め、勝利した。しかし、選挙で大きなテーマとして掲げていた反汚職を実現できるかについては、懐疑的な見方をされている。
彼はきわめて悪化した経済状況を受け継いだ。モスクワとの対立は、とくにウクライナの経済にダメージをあたえている。
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2019年5月20日にゼレンスキー氏が大統領に就任したが、そのあたりのことが
コメディアンから「戦時下の大統領」にで見られます。
また、
ロシアによるゼレンスキー氏暗殺計画を阻止、「スパイ」2人逮捕という気になる報道も出ています。