図書館で『映画の巨人たち リドリー・スコット』という本を手にしたのです。
なんか既視感のある本であるが・・・再読でもいいかということでチョイスしたのです。
帰って調べると、やはり再読となっています。で、この記事を(その4)とします。
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図書館で『映画の巨人たち リドリー・スコット』という本を、手にしたのです。
「ブレードランナー」「ブラック・レイン」「テルマ&ルイーズ」とくれば・・・
もっとも好きな監督になるのかなあ。
【映画の巨人たち リドリー・スコット】
佐野亨著、辰巳出版、2020年刊
<「BOOK」データベース>より
SFから歴史劇まで、幅広い題材を描きながら、人間の悪意や文明論など明確なテーマ性と独自の映像美で、いまなお第一線で活躍し続けるリドリー・スコットーその魅力と本質をさまざまな角度から読み解く!
<読む前の大使寸評>
「ブレードランナー」「ブラック・レイン」「テルマ&ルイーズ」とくれば・・・
もっとも好きな監督になるのかなあ。
rakuten映画の巨人たち リドリー・スコット |
リドリー・スコットの生い立ちなどが語られているので、見てみましょう。
P30~32
<リドリー・スコットの生い立ちと原体験:稲田隆紀>
リドリー・スコットにはこれまで三度、インタビューを行った。思い起こせば、1980年代は話題作であればプロモーションのために監督、俳優が来日することが定番化していて、取材する機会も頻繁にあった。
最初はスコットが『ブラック・レイン』のロケハンで来日し、『誰かに見られてる』のプロモーションに時間を割いた1988年だった。『誰かに見られてる』はアメリカでの評判も芳しくなく、スコットは意気消沈した風情で取材に応じた。
2回目は1989年、『ブラック・レイン』公開直前のプロモーションで、今度は意気軒昂の彼に取材した。(中略)
この時点では彼は巨匠としての風格を身につけていた。
だが、本稿で求められているテーマはスコットの“匠に至る道”ではなく“生い立ちと原体験”だ。これまでの取材のコメントを洗い出し、資料を駆使して挑んだ。
資料によれば、リドリー・スコットは、1937年11月30日に北海に面したサウスシールズ、タイン・アンド・ウェアで生まれた。父親フランシス・バシー・スコットは王立工兵連隊(Royal Èngineers)の将校だった。母親のエリザベスは留守の多い父親に代わって、兄のフランク、リドリー、弟のトニーの三人をタフに育て上げた。彼女は口答えも許さない絶対的存在、強く尊敬に値する女性だった。後にスコットが生み出すタフな女性キャラクターの原型が母親であったことは間違いがない。
時代は第二次世界大戦前夜。父の任地がイギリス、ヨーロッパ各地に及び、家族は父と行動をともにして、各地を巡ることになる。第二次大戦後、スコット一家はダラム州ハートバーン、グリーンズ・ベック・ロードに定住することになった。
スコットが海洋冒険小説、特にジョゼフ・コンラッドなどのファンになったのは、父親の影響だと思われる。実際、彼は兄のフランクが既に輸送船団の一員となっていたこともあり、子供らしい夢として王立工兵連隊に加わりたいと考えていたようだ。
一方で、父親が水彩画を描くのが好きだったこともあって、スコットは絵画やコミックに興味を持つようになり、彼もまた絵を描くのが好きになった。父親は彼に芸術的才能を見いだし、それを伸ばすように勧めた。
さらにこの世代の子供らしく、スコットもまた映画に魅せられた。映画館のスクリーンをみつめながら、夢を育む日々を送っていた。
「影響を受けたのは1940年代の英国映画だ。ゾルタン・コルダの『ジャングル・ブック』や『サハラ戦車隊』、マイケル・パウウェルの『赤い靴』、デヴィッド・リーンの『大いなる遺産』。さらにリーンが後に生み出した『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』にも感動させられた。キャロル・リードの『落ちた偶像』や『第三の男』も忘れられない。みな卓抜したストーリーテラーだった。ハリウッドの作品も見たが、面白いだけで、感銘はなかった」
このコメントは1988年に引き出したのだが、どうも後付け臭い。当時はきれいな映像だけの男という評価に悩み、ストーリーテラーになるべく模索していた頃で、子供時代にこうした監督たちに惹かれたとは考え難い。他のインタビューでは、H・G・ウェルズの小説に熱中し、『恐怖の火星探検』や『放射能X』、『地球が静止した日』などのSF作品を、十代の頃に好んだと語っていた。こちらの方がよほどしっくりくる。
ともあれ、スコットは父の勧めに従い、ウェスト・ハートルプール美術カレッジに進んだ。1954年から1958年まで、彼は本格的に絵画を学び、写真技術やグラフィック・デザインにまで手を広げた。ヴィジアルセンスの何たるかを学んだ時期といえるだろう。
卒業後、今度はロンドン王立美術大学の奨学金を得て、美術的感性をさらに深めていく。デヴィッド・ホックニーやアラン・ジョーンズといった現代を代表する画家とともに学んだことで、スコットの感性は磨きがかかっていった。
この頃からスコットはオーソン・ウェルズや黒澤明をはじめとする世界の映画監督を知り、映画の多様さに眼が開いた。大学の映画部門の設立を積極的に働きかけ、大学の戸棚に置かれていた十六ミリカメラを駆使して、『少年と自転車』という短編を撮り上げる。父親フランシスと、嫌がる弟トニーを出演させたエピソードはつとに知られている。
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『映画の巨人たち リドリー・スコット』3:「ブレードランナー」の論考
『映画の巨人たち リドリー・スコット』2:「テルマ&ルイーズ」の論考
『映画の巨人たち リドリー・スコット』1:冒頭の論考