図書館で『中世的世界とは何だろうか』という本を、手にしたのです。
本書は週刊朝日百科『日本の歴史』(全133冊)に掲載された内容の一部とのことで、著名な歴史学者の語り口は如何なるものか?・・・興味深いのである。
【中世的世界とは何だろうか】
網野善彦著、朝日新聞出版、1996年刊
<「MARC」データベース>より
「源氏と平氏」から「後醍醐」までを縦軸に、遊女・海民、遍歴する人々、楽市と駆込寺、貨幣と税などの諸テーマを横軸に、広く深く日本の歴史をとらえなおす。
<読む前の大使寸評>
本書は週刊朝日百科『日本の歴史』(全133冊)に掲載された内容の一部とのことで、著名な歴史学者の語り口は如何なるものか?・・・興味深いのである。
amazon中世的世界とは何だろうか
|
冒頭の「海民と遍歴する人々」から縄文文化と弥生文化を、見てみましょう。
p8~10
<列島と海の民>
日本文化の最も古い基層といわれる縄文文化について、これを「島国的」で閉鎖性の強い文化とする議論を、しばしば耳にする。しかしこれが、「俗説」・・・日本を島国ときめこむ見方の産物であったことは、たとえば渡辺誠氏の研究によってすでに見事に明らかにされている。
渡辺氏は、縄文時代前期以来、西北九州と朝鮮半島東南岸との間を交流する漁撈民があり、この人々が結合釣針、曽畑式土器・石鋸など、海を越えた両地域に共通する文化の担い手であった事実を解明したのである。縄文文化は決して日本列島の中で完結した文かではなかった。
しかも、この漁撈民の文化は、縄文時代の漁撈の中心で、外洋性の釣漁撈、内湾性の網漁撈を発展させた東日本の漁撈民の文化に対して拒否的であり、異質であった。稲作はこの人々の朝鮮半島との交流の上にのって、まず西北九州に入ってくるが、それを契機に展開する弥生文化とともに、西日本には新たな外洋性の網漁撈が展開しはじめる。そしてこの弥生文化に対し、東日本の縄文人はやはり、少なくともその当初は多少とも拒否的だったのである。
渡辺氏はこうした漁撈民のあり方が、単に東日本、西日本の違いにとどまらず、北海道、沖縄もそれぞれに独自であったとする「常識」を覆す上でも、十分の根拠となりうるであろう。日本列島の各地域で、海を通じて大陸や北方、南方の島々と交流しつつ営まれてきたさっまざまな人間の社会が、一つの「民族」といいうるほどになるまでには、まだまだ長い時間が必要であった。
最近の研究はまた、縄文人の生活が、木の実などの採集に依存するところがきわめて大きかったことを明らかにした。こうした植物食を主とする内陸部の縄文人にとって、塩分は生理的にも不可欠であり、そのことが塩を生産し、魚介・海藻を採取する海辺の漁撈民との交易を早くから発展させた。関東・東北に縄文時代後期から土器製塩が発達し、漁撈民が専業的傾向を強めるようになるのは、こうした交易を前提としなければ理解しがたい。
そして弥生時代になると、土器製塩は西日本の瀬戸内海、大阪湾を中心に大きく発展し、古墳時代に入ると、さらに九州・北陸・東海にまで広がっていく。瀬戸内海には、漁撈・製塩を専業とする集団を率いた首長の古墳も、姿を現すようになる。周知のような西日本と大陸・朝鮮半島との活発な交流を担ったのが、こうした西日本の海の民であったことはいうまでもない。漁撈・製塩、海上の交通に従事するこれらの人々を、その一つの生業のみで呼ぶことは不適当であり、以下、海民とこれを呼ぶことにする。
■貢納・神饌と海産物
畿内・吉備・山陰・北九州などの首長たちの激烈な競合の中で、中国大陸・朝鮮半島の政治勢力の動向と不可分の関わりを持ちつつ侵攻した、国家形成のすべてにわたって、これら海民集団が大きな役割を果してきたことは疑いない。その経緯は未だ十分に解明されたとはいいがたいが、海民の活動の一部は、確立した律令国家の制度の中にも、明確な刻印を残しているのである。
|
『中世的世界とは何だろうか』1:さまざまな職能民