カテゴリ:神戸大学囲碁部史
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「囲碁の名門、昨年度大学選手権日本一に輝いたW大学囲碁部が2007年度、突然廃部になりました。その意外な理由とは?」 むろんW大学囲碁部が廃部になるわけないんですけど、それがシャレでない大学があるんです。(笑) 「実は、私の入学した頃は、囲碁同好会は学生部の公認団体ではなかったのだ。そうなった理由は、二つあったと言われている。・・・ 詳しくは、神戸大学囲碁部再建の物語をお読み下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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なぜか同好会だったですね。
(2007.01.28 10:07:31)
神戸大学囲碁部の恥ずかしい歴史、楽しく拝見しました。
私は昭和41年入学ですぐに囲碁部に入りました。当時部員は十数名おり、正確な名前は忘れましたが、関西囲碁リーグのような大会が、本因坊を輩出した京都の寂光寺であり、1部と2部に出場し、京大、阪大と上位を争っていました。 その頃の部室は、六甲台グラウンドの南斜面に建てられた木造の建物で、社会何とか研究会のような名前の団体と共同で使っていました。一度、大先輩の西村さんが見えて、1部クラスのK田さんらに2面打ちで指導碁を打ってくれたことがありました。「歴史」には木造の部室は昭和30年代に火事で焼けたように書かれていましたが、昭和45年まではあったと思います。 さて同好会だった理由ですが、世話役をしていた先輩が、「正式な部にすると、ショーモナイ会議に出て、1~2時間ダマッテ座って聞いとかんとあかん。誰かそんな会議に出たい奴いるか?」と部員に訊いたが、誰もそんな会議に出席する勇気のある部員は現れず、じゃあこのまま対内的には同好会、対外的には正式クラブとしてやって行こうということになっていました。 (2021.08.26 20:07:10)
だんかいまんさんへ
昭和41年入学、ということは私とは15年上になりますね。 同好会であり続けた理由は、私が聞いていた話とは違っていたのですね。 火事で部室がなくなったのは先輩が卒業された後のようですね。 誰か知っている人がいたら教えていただきたいものです。 私が部長を引き継いだときには昭和40年代の事はわからなくなっていました。昭和40年代のOBで知っているのは篠山鳴鳳高校の教師の方と住金和歌山に勤務されていた方しか会ったことがありません。 1990年から行われている西日本学生OB大会も団塊の世代はほとんど出場していません。 西村先輩らのグループと私ら以降の第二期黄金時代(行松・諸留・多賀・岡本など)のメンダーで出ていました。 西村さんも鬼籍に入られて寂しくなりました。 (2021.08.26 20:54:59)
みんみん猫0707さん、レス有り難うございます。レスを頂いていたに長く気づかず、失礼しました。
私は昭和45年卒業、あの学園紛争の頃で、3回生の冬ごろから4回生の秋にかけ、9ヶ月間もストライキ、ロックアウトが行われました。その後授業が再開しましたが、9ヶ月の遅れを取り戻すため、あたふたとツメコミ授業、ゼミ、実験とこなし、1ヶ月遅れで卒業しました。 昭和41年ごろの入学当時の囲碁部は、大会に1部3名、2部3名(それぞれ5名だったかはっきりしません)を送り出せる程度には部員がいました。私も2部に出させてもらっていました。 2回生ぐらいまでは、週1~2日部室に集まって碁を打っていたように思いますが、部室は社会ナントカ研究会と共同使用で、部室に行くとその会がミーティングをしていて、ワルイワルイとか言って出て行ったこともありました。 3回生ぐらいからは、アクティブな先輩が卒業したためか、学園紛争のためか、あまり活動しなくなっていたようでした。 先輩では、古宇田さん、谷さん、、、あと何名かおられましたが、お名前を忘れました。同期では、沢田さん、松本さんらがいました。 私ごとでは、その後30歳ぐらいまでは、先生に碁を習っていましたが、先生が亡くなったあと30年間ほど、全く石を握っていませんでした。10年ほど前に同級生が、結城先生が碁席に来られるので打ってもらおうと誘いを受け、30年ぶりに囲碁再開、それからは月1~2回程度仲間で楽しんでいます。 (2021.10.28 15:26:53) |
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