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読書(09~ノンフィクション)

2011年12月16日
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「シャレコウベが語る」松下孝幸 長崎新聞新書

かなりマイナーな処から出ている新書なので読んでいる人は少ないと思うが、前作「日本人と弥生人」の内容をさらに深化させて、かつ読みやすくさせていた。

2001年発行であるが、その間に土井が浜弥生人骨のルーツが中国山東省にあることを突き詰めたというのが、一番大きい。もちろん、それが直接祖先が中国からの渡来人であったというようなことは言っていない。それどころか、韓国の人骨はほとんど調べていないのが現状のようだ。著者は韓国には勒島意外には人骨が発掘されていない、などと言っているが、釜山大学にもあったし、ほかにもあったはずだ。勉強不足ではないか。

面白かったのは、弥生時代の「殺人事件」を人骨の解明から推理したパート。土井が浜の124号人骨は以前よりも突っ込んだ推理がされていた。びっくりしたのは、14本もの鏃(やじり)が打ち込まれていた特異な人骨だというふうに展示されているが、当の館長は骨に総べて当っていないということで、実際は「体に打ち込まれなかったかもしれないと考えている」と言っている。そして、致命傷はここにはない鏃が頭に打ち込まれていたのである。それは鉄錆がついていたことで明らかになった。そして殺されて直ぐに顔面を破砕されている。これらのことから、シャーマンとしての責任を取らされたのだろう、と以前と同じ結論だった。

もう一つ面白かったのは、青谷上地寺遺跡の脳が残っている人骨への所見だ。戦争があった、ということではなく、脊椎カリエスという病気を怖れて周辺地域の弥生人が全員を虐殺したという所見を述べているのである。傾聴に値する。紀元二世紀の遺跡だけに、これは一つの事件として覚えておくべきだと思った。






最終更新日  2011年12月17日 03時23分30秒
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2011年12月10日
「白土三平伝」毛利甚八 小学館
四方犬彦氏の「白土三平論」が白土三平評伝の決定版だと思っていたのであるが、これはあくまで作品論であった。今年さらにその上を行く決定的に面白い本が出た。

毛利甚八氏は「家裁の人」で知られるマンガ原作者であるが、千葉の白土家へ何度も足をを運び、白土氏から直接白土の人生を聞き、そしてなおかつ白土の住んでいた土地を調べて尋ねる、というドキュメンタリー作家の王道の調査を行った。実に面白い伝記評論だった。

いくつか興味深かった点をメモする。

戦前、プロレタリア画家の父・岡本唐貴は東京、大阪を転々としていたが、一時期大阪の鶴橋の近くにある朝鮮人部落にすんでいた。苦労して毛利氏はその地を突き止める。ここで幼い白土は高さんという人と仲良くなる。この辺りに、カムイ伝の被差別部落の原風景がありそうだと、毛利氏は考える。特に苔丸や竜之進が非人部落に逃げ込み、被差別の暮らしを身をもって体験し、自分の常識を高めていくというモチーフはここら辺りにあるだろうと。

少年のころ、白土氏は「水中世界」という魚と漁をする人との葛藤の話を描いていたと言うのを聞いて毛利氏は思わず言う。
「へぇ、そのころから弱者の立場から世界を見る視点は変わっていないんですねぇ?」
白土氏は問われることが心外だという顔つきでこう答えたという。
「だって、強い者から見る体験をしてないもの」


社会への目覚めは早い。
昭和21年(14歳)のころ、東京でアルバイトをしたりしているが、単独講和反対のデモに出かけたりもしている(19才のころ?)。

そのころ、父・岡本唐貴もプロレタリア芸術運動の路線をめぐって仲間との乖離が進んでいたようだ。(「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房1983)

日本共産党へ入党申請をしてなぜか申請を受け付けてもらえなかったらしい。どのような事実関係があったのかは不明だ。今では調べようはないかもしれない。

1952年、20歳の登青年は血のメーデー事件の現場に居た。まるで白兵戦のような現場で、人が撃たれた所も見たという。「これは「忍者武芸帳」や「カムイ伝」にとって役に立った」と白土氏は証言している。確かに絵を描く人間にとっては決定的な体験だったろう。そして、ここまでの人生経緯がまさに父岡本唐貴(本名は登)の人生と瓜二つだったと言うことは、既に書いた。そういえば、白土三平の本名も「岡本登」である。そうやって、父から子へ「影丸」のように「サスケ」のように、「何か」が受け継がれていくことを「宿命」のように背負っていたのが、白土三平という人生だったのかもしれない。

「ガロ」という雑誌名は白土作品の忍者名から取られたものであるが、我々の道という「我路」という意味合いがあった他、アメリカマフィアの名前も念頭にあった戸という。

「カムイ伝」初期の小島剛夕との協力の仕方や、別れ方がこの本で初めて明かされていて、びっくりする。

白土は岡本唐貴の血を受け継ぎ、長男家長の役割を生涯持った。その白土が今独りになっている。残念でならない。

千葉の大多喜町に商人宿があり、白土がやがて「カムイ伝」の仕事場として使い、若きつげ義春が一人残されて大きく脱皮する舞台になったという。この商人宿がまだ残っているならば、せめて当時の風景が残っているならば、ぜひとも一度は尋ねて見たい場所になった。

白土の「様々な人物やモチーフが重層的に描かれていく」長編小説の手法は、白土の口から出てきたこととして「戦争と平和」「静かなドン」を読んだ記憶から得ているという。

「カムイ伝」第一部が終ったあとになかなか続きを書くことができなかった理由は度々証言しているが、今回一歩踏み込んだ発言があった。
「情勢が変わってしまい物語を書きにくくなった。新左翼とかが出てきて状況が変わってきたし、共産国がうまくいっていないことがわかっていた。俺自身も、これ以上仕事をすると身体がぶっ壊れちゃうのが分かっていた」
新左翼が「革命のバイブル」と持上げたのは、白土にとっては迷惑だったのかもしれない。また、おそらく共産主義的ユートピアの崩壊或いは北海道の地で僅かに実現、というイメージを第二部以降に持っていたのかもしれないが、それの修正を余儀なくされたのだろう。だから、我々は一生待っても、アイヌの蜂起に竜之進やカムイが参加するという物語は見ることができない、ということなのだろう。
「主題はアイヌと組んで、いろんなことをやる群像が居て、一つのことを追求すると、多くのことが失われるというようなドラマを考えていた。その群像を持つ過去を描くのが第一部で、第二部はその人物たちの放浪と白いオオカミの物語を考えていたんですがね。」

しかし、白土のドラマつくりの特徴は同じテーマが繰返し、繰り返し、現れるというところにあった。

「カムイ伝」第二部の特徴は、毛利氏が述べているように千葉・内房の海に暮らした体験と教育論にあるのかもしれない。ただ、それからはみ出ているところが、実は白土の白土たるところなのだと私は思う。第二部はずっと雑誌で読んでいて、実は途中で単行本も買わなくなった。しかし、もう一度その全体像を再検討するべきなのかもしれない。

白土三平という漫画家の全体像を、別の言葉で言えば、戦後マンガ史の全体を明らかにするために劇画界の大きな峰の全体像を明らかにするべき時期が来ている。この本はそのための、そのためだけの本である。







最終更新日  2011年12月10日 17時49分19秒
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2011年12月09日

「1億3000万人の自然エネルギー」飯田哲也 講談社

前著「原発社会からの離脱」を読み終えて、対談なので充分に語りきれなかった飯田氏が提唱する自然エネルギー100%社会の実態を詳しく、分かりやすく紹介する啓蒙本が必要だという思いをしたのであるが、さすがにみんな考えることは同じだと見えて、既に10月にそういう本が発行されていた。まさに啓蒙本である。

5364エネルギー計画.JPG
まるで絵本みたいに文字が大きくなっているが、大切な文は大きくして、データや説明文は図・表、小さい文字で賄っている。それによって、見た目よりも豊富なデータも載っており、一般人の啓蒙本としては、先ず必要な知識が得られるようになっている。

5365世界情勢.JPG
おそらく、自然エネルギーの情勢は日進月歩であり、ここに書かれていることも、あと数年すれば大きく書き換えられるに違いない。

5368日本の地方エネルギー.JPG
一番書き換えられなければならないのは、日本における情勢であることは間違いない。

これを読むと、再生エネルギー買取法が成立したとはいえ、このままではまだまだ飯田さんの提案の方向には舵を切っていない。

アメリカだけを見ていてはダメだ。ヨーロッパの現実を見ながら、よその国の長所を取り入れて日本式のエコ社会を実現していくのは、できる。それは日本の得意とするところだ。

5370損得勘定.JPG
一番の障壁は、政府の「意識」であることは、おそらく間違いがない。






最終更新日  2011年12月09日 22時10分36秒
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2011年12月07日

「原発社会からの離脱」自然エネルギーと共同体自治に向けて
講談社現代新書 宮台真司 飯田哲也
(2011年6月20日発行)

大震災の後、トータル的に自然エネルギーについて語れる人はこの人しかいないという状態になって、ずーとマスコミに出っ放しになっている飯田哲也氏の震災後初めての本になった。時間がないから対談本になっているのは仕方ない。いつかきちんと整理した自然エネルギーシフトへの啓蒙書を出して欲しいと思う。

対談相手は、私は初めてだが、社会学者の宮台真司氏。氏によっておそらく今回の対談は歴史的な広がりを持った。今回の原発問題が、何度も繰返してきた日本の社会システムの過ちをまた繰返していることが明らかになった。歴史の教訓からどのように未来デザインを描くのかをある程度は示した。

今回の原発問題が、戦前の大本営の失敗の歴史的教訓をそのまま繰返していることには気がついていたが、その問題の本質に「官僚問題」があり、それは幕末から続いていることについては、今回初めて知らされた。

またびっくりしたのは、お二人とも私と同世代の1959年生まれ。大学入学時代には、しらけ世代全盛期で、その中で違和感を感じ、(身動きが取れなかったのは私だけだろうけど)人生を模索しながら生きて来たことに共感を覚えた。

飯田氏は特に理工系の学部に進んだけど、今西錦司ゼミの学生と付き合う中でどうも鍛えられたらしい。表立っては行動に移せないけど、議論だけはする雰囲気があった。それが後々、原子力村の中枢に入っても違和感を覚えてそこをステップに次ぎに移る素地になったようだ。

以下、幾つかなるほどと思ったところをメモ。

●【宮台】日本は、政治が主導的だった時代は明治維新以降、ほんの僅かな間しかなく、長く見積もって明治はんばぐらいまでしか続かなかった。それ以降は役人の力が巨大な官治主義が続きます。(略)大正になると政党政治つまり民治主義になるけど、政友会と民政党の政党争いの末、政友会が民政党浜口内閣のロンドン軍縮条約締結を統帥権干犯として批判したのを機に、軍官僚が総てを握る。(略)政治家と行政官僚はどこの国でも対立するわけですが、日本では圧倒的に政治家が弱く官僚が強いわけです。政治家の活動の余地は単なる利権の調整しかないので、ドブ板選挙をするしかない。政策にはほとんどタッチできません。
●【宮台】自立に向けて舵を切ろう、アメリカに依存する国であることをやめよう。田中角栄はそう考えて、対中国外交と対中東外交でアメリカを怒らせる独自路線を走ろうとしたわけです。それが例の「ピーナツ」という暗号が書かれたものが誤配されて見つかったという発覚の仕方で五億円事件まで行く。(略)いろいろな政治家に聞いてもアメリカの関与は良く分からないのですが、「田中角栄のようなことをやってはいけないんだな」という刷り込みにはなりました。
●【宮台】行政官僚には「無謬原則」がある。官僚機構の中では人事と予算の力学が働くので、「それは間違っていた」とは誰も言い出せない。これは大東亜戦争中の海軍軍司令部や陸軍参謀本部問題でもあります。
●【飯田】世界では自然エネルギーへの投資額が毎年30%-60%ほど伸びています。10年後には100兆円から300兆円に達する可能性がある。20年後には数百兆円、今の石油産業に匹敵する可能性がある。
日本はこの投資の1-2%しか占めていません。日本は「グリーンエコノミー」の負け組みなのです。新しい経済を生み出す側で負けてしまっている。
一方で日本は化石燃料を年間23兆円、GDPの約5%を輸入しています(2008年)。石油、天然ガス、石炭です。(略)(石油と石炭の)二つが、今後貿易黒字を縮小させるなど日本経済の負担になっていきます。新しい経済の側でどんどんチャンスを失い、しかも日本の電力は石炭だらけですから、その石炭代と、それで増えたCO2を減らしたことにするためのクレジット代でますます電気料金が上る。原子力はコストパフォーマンスが極めてお粗末ですから、新しい原発はできず、稼働率は低く、事故だらけ。それをまた石炭で補う。という極めて暗い未来像になります。
→常識的に言えば、自然エネルギーへの転換が、日本の未来にとって、中国対策にとってでさえも、米国支配からの脱却という面でも、ベストな選択だろう。芥川の「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である」という言葉が思い浮かぶ。唯一の心配は、飯田のこの試算がほんとうに正しいかどうか、ということだろう。
●【飯田】霞ヶ関文学の本質はフィクションと現実を繋いでいく言葉のアクロバットです。
●【宮台が飯田の半生を要約】p74






最終更新日  2011年12月07日 22時52分53秒
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2011年12月06日

「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」C.ダグラス・スミス 平凡社ライブラリー

2000年発行、2004年文庫に収録された本書であるが、ここに書かれていることは、現代でも充分に通用する、どころか現代こそ大切な指摘が多々ある気がする。

一章目において、著者は「タイタニック現実主義」について言及している。

現実主義的な経済学者が「タイタニック」に、全速力と命令しようとしている。「スピードを落とすな」と。これがタイタニックの論理、「タイタニック現実主義」です。なぜそれが論理的で現実主義的に聞こえるのか。とても不思議なことです

ついこの前も、日本各地でこのような声が聞こえた。「(TPPという)バスに乗り遅れるな」。

著者は言います。「『白鯨』の船長エイハブは自分の狂気を自覚していて、一等航海士にそれをこう説明する。「私の使っている方法と、やり方は総べて正常で合理的で論理的である。目的だけが狂っている」」

思うに、目的を決定するのは、経済的智識や科学的思考ではない。ましてや、政治家や財界とのパイプでもない。豊かな教養に裏打ちされた「普通の感覚」なのではないか。つまり、私たちの直感を信じればいい。そうすれば、タイタニックは沈まなかったし、TPPでも歴史の批判に耐えうる決定をなすことができる、のではないか。

以下、なるほどな、と思ったところはあまりにも多いのであるが、時間の許す限り書き写してみたい。

●20世紀ほど暴力によって殺された人間の数の多かった100年間は、人類の歴史にはありません。(略)ハワイ大学のランメルの「政府による死」という著書の中では、国家によって殺された人の数はこの100年間で、203,319,000、つまり2億人にのぼる。もちろんこの数字は大げさかもしれない。でも、大げさだから半分にするとしても、あまり結論は変わらない。(略)もう一つ驚くことがあります。それは国家は誰を殺しているかということです。(略)殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いのです。ランメルによれば、先の国家によって殺された2億人のうち、129,547,000、約1億3000万人が自国民だそうです。(p47-p48)
●今の日本のいわゆる「現実主義」の政治家が、軍事力を持たなければ安全保障はできない、軍事力を持っていたほうが社会の安全を守られるといっているけれども、ではその根拠はどこにあるのか?証拠は?と聞きたいのです。頭の中の話ではなく、歴史の記録にある証拠はどこにあるか、ということを聞きたい。その証拠を見せて欲しい。日本の歴史で考えて見ましょう。日本政府はいつ一番軍事力を持っていたのか。軍事的にもっとも強かった時代は何年から何年までか、そして暴力によって殺された日本国民の数が一番多かったのはいつか。まったく同じ時代です。そういうことを考えるのが、現実主義ではないだろうか。今度は大丈夫だ、という根拠はどこにあるのか。その文脈で考えれば、日本国憲法第九条はロマン主義ではなく、ひじょうに現実主義的な提案だったと私は思います。(p53-p54)
●貧富の差というのは、経済発展によって解消するものではない。貧富の差は正義の問題だと思います。(略)「正義」というのは、政治の用語です。貧富の差は経済活動で直るものではない。貧富の差を直そうと思えば、政治活動、つまり議論して政策を決め、それをなくすように社会や経済の構造を変えなければならない。(p128-p129)
●競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だと思います。暗黙のうちに存在する恐怖です。一生懸命働き続けなければ、貧乏になるかもしれない、ホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。(略)そういう恐怖があるのは、社会のセーフティネットが弱いからだと思います。(略)ほんとうの意味での安全保障(セーフティネット)のできた社会であるならば、その恐怖は減るはずです。その恐怖が減れば、健全なゼロ成長の社会は可能になるのではないか。(略)そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロップメント)」と呼んで見たいと思います。(略)すなわち一つには、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれ個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。そして対抗発展の二つ目の目標は、経済以外のものを発展させることです。(略)経済用語で言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。(p138-p141)
●20世紀、特に20世紀の後半には、第二章、第三章で紹介したような政治経済論が世界的な覇権をつかんで「常識」になりました。「正統な暴力」を独占する国家をつくって、安全と秩序を守ってもらう。そしてその国家を単位としながら、産業革命から始まった経済システムを世界の隅々まで広げる。この過程は1945年までは「帝国主義」と呼ばれ、1946年あたりから「経済発展」と呼ばれ、最近では「グローバリゼーション」と呼ばれている。(略)けれどもこのものの考え方はそのうち変わると思います。それは歴史の記録を見ればすぐ分かることです。覇権を握った「常識」はこれまでも変わってきた。だから経済発展の常識も暴力国家の常識も変わる。これから変わるというより、もう変わり始めているのです。(略)自動的に人間の意識が変わるとは思いません。もっと単純なことで、覇権をつかんだタイタニック現実主義にどんな力があろうとも、人間にはもう一つの、本来の常識が備わっている。そう信じたからこそ、そのような言い方をしたのです。誰もが、タイタニックの外にある現実を見て分かるだけの力を持っている。幻想の中に居ても、その身に危機が迫れば、本来の現実主義に戻る能力を持っていると思うのです。(略)前に話したように、その変化が遅すぎて、大きな災難とともに訪れるのか、それとも積極的、意図的な改革によってなされ、それを回避できるのか、間に合うか間に合わないか、が重要です。ただ、仮に間に合ったとしても、人間が危機を意識し、産業資本主義、世界経済システムを変えることに成功したとしても、それは何かユートピアになるとか、地球を楽園にするというような、そういう甘い話ではない。それにはもう遅いのです。何年か前にある学生から聞いた言葉を借りると「放射能つきユートピア」しか成り立たないのです。災難はもう進んでいるわけですから、バラ色のユートピアの可能性は20世紀で潰れてしまった。しかし、この途中まで破壊された人間の文化、途中まで破壊された自然界にも、この破壊さえ止まれば希望は残っています。その希望は、文化と自然の両方が持つ大きな回復力にあります。(p223-p228)



「誰もが、タイタニックの外にある現実を見て分かるだけの力を持っている」
私は去年の今頃、ソウル市の片隅にあるノリャンジンという受験生の寮が犇(ひしめ)いている処を歩いた。そこにあるのは、たった一畳か二畳の部屋のなかで何年も資格を取るために10枚27000w(1900円)の食券で何とか食いつないでいる年取った学生たちの姿だった。そんな部屋にさえすむことができない学生もたくさん居ると聞いている。若者の就職率、非正規率、ともに日本を追い越している韓国は、未来の日本の雇用状況だとも言える。外から見ると、韓国の酷さが良く分かるが、日本の現実に浸っていると、日本の酷さには気がつかない。

でも、それはいつかきっと、みんなが分かる日が来る。既に今年、国民的体験で「現実的未来」は「放射能つき破滅」か「放射能つきユートピア」しかありえない、と分かり始めたように。






最終更新日  2011年12月06日 23時49分57秒
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2011年12月05日

前回岡山城下町を歩いたのは、学芸員の案内の下であったが、今回はこの本をタネに歩いてみた。今日歩いたのは、津山往来といって江戸時代山陽道のほかに岡山城下から倉敷方面に抜ける庭瀬往来と北の津山方面に抜ける津山往来があり、その入り口辺りを歩いたのである。

5265甚九朗稲荷.JPG
シンフォニービルからオリエント美術館の西に下りると甚九郎稲荷がある。この名前のお方が相撲を取って橋を壊したらしい。つまり当時はこの辺りに堀があって小さな橋がかかっていたのである。

5268天神.JPG
現在天神山会館のある辺りは岡山藩の支藩の鴨方藩主の池田信濃守の中屋敷になっていたらしい。

5269公演.JPG
その周りをぐるりと堀がめぐっていた。その跡が今も公園や道路などになって残っているし、その当時の石垣も残っている。

5271弓道場.JPG
この堀から北側の弓町は下級武士のすむところだったらしい。岡山城下は基本的に1945年6月29日の岡山大空襲で焼け落ち、昔の建物、特に江戸時代の面影は見る影もないが、ここがそうだったのだと思って歩くと例えばこの昭和の雰囲気を残した弓道場の存在に気がつき、今は知らないが、この道場主の祖先は下級武士だったに違いないなどと思うのである。

5272馬屋.JPG
東に歩くと、津山往来の基点辺りに当る。この辺りに藩の御厩(馬を繋げて置く所)があった。

5276材木筋.JPG
出石町。この辺りは材木問屋が今も多い。商人の町だったのである。一つ路地に入ると、戦災を免れたところなので古い家がまだある。

5283神社.JPG
津山往来沿いに榎本神社がある。当時から商人の信仰を集めたらしく、尾張、摂津、讃岐、安芸、美作などの商人が寄進した玉垣が残っているらしい。1685年の石の手水鉢、1800年の石鳥居や、1860年の石灯篭などがある。

5289番町.JPG
国道を渡ると、番町に入る。この辺りは下級家臣の居住地。就実学園の道路を隔てた向かい辺りの小路に入ると、古い家も多いし、小道がどうやら江戸時代そのままの面影を残しているようだ。

5292ここを入って.JPG
ここで行き止まりかと思えば、

5293行き止まりか.JPG
まだ先があり、

5294階段.JPG
結局階段を上って旭川に出ることができた。


5297つ山往来.JPG
津山往来はこうやって旭川沿いに北へ繋がって行ったらしい。






最終更新日  2011年12月06日 00時41分21秒
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2011年11月25日

「報道災害【原発編】事実を伝えないメディアの大罪」上杉隆 鳥賀陽弘道 幻冬舎新書
今年の三月から六月くらいにかけて、本屋の棚は活気がなかった。読みたい本が並んでいなかった。何の本かというと、言うまでもなく原発関連の本である。

3.11から約一ヶ月、すべての国民が情報を欲していたと思う。もちろん、テレビは24時間震災と原発の番組をしていた。けれども、テレビは、そして新聞も、政府と東電の広告塔となっていたかのごとく、記者会見発表を鸚鵡返しのごとく、繰返していた。その後、後出しジャンケンのように、次々と前の発表が覆されていく。そのことを批判しながら報道した大手テレビと新聞はほとんどなかった。

だからまとまった原発の情報が欲しかった。そしてメディアの嘘を暴く本も欲しかった。

いま、本屋の棚を見ると、原発関連の本が所狭しと並んでいる。そういう状態になるのに約3-4ヶ月かかった。今までと比べると早かっただろう。しかし、ほんとうに必要な時にはなかったことを考えると、遅かったともいえる。

この本はそういう種類の本である。とくに、3.11直後のマスコミのどうしようもない病根、記者クラブ制度について、徹底的に批判した本である。

日本報道協会を立ち上げて、記者クラブを通さずに独自に記者会見を行う道を初めて作った上杉隆さんと元朝日記者の鳥賀陽弘道さんの対談形式で急遽作られた本である。

対談なので、マスコミの嘘が一つ一つ精査されて時系列的に分析されて出てきているわけではない。特に上杉さんは、当初クラブ記者から「デマ」呼ばわりされていて、相当怒りながら話しているので、ずいぶんと話が飛んでいる。それでもその怒りながら話した前半のほうが、とっても面白いという種類の本である。

新書は最近特にそうなのだが、特に今回は雑誌的な価値があると思う。けれども、この特別な時期に書かれた雑誌なので、資料的価値は高い。

彼らの発言で記憶に残したい発言要旨を以下に羅列する。

●震災当日の官房長官会見にフリーの記者は入れなかった。週一回金曜にはフリーも入れるようになっていたにも拘らず。そして入れるようになったのは、3月18日から、一週間に一回。
●工程表をだせ、と質問する記者は一人もいなかった。フリーの我々がしつこいくらいに言ってやっと出た。そして新聞は一面トップで、何の疑問もなく載せる。一面に批判はぜんぜんしていない。たぶんニューヨークタイムズだったら、「こんな工程表は実現不可能だ」と書いているはずです。
●今後20-30年間、日本の漁業は絶望的です。海洋投棄は、海は広いから放射性物質は薄まるというバカな事をメディアは言っていますが、小学生でも習う食物連鎖を知らないのでしょうか。アメリカで日本から食材を運んでいた高級店は潰れています。半導体産業も潰してしまった。半導体は放射能汚染されるとダメですから、すでに輸入停止になっている。
●原発事故が遭った直後に調べたら、朝日新聞は50キロ圏外、時事通信は60キロ圏外に逃げているのです。この原稿は原発から50キロはなれた支局から書いています、とか正直に書いてくれればいい。自分たちは安全圏にいながら、「安全です」と書き続けるのは罪ですよ。南相馬市の市役所の皆さんは激怒していました。
●大げさでなく、ほんとうに全部なんですよ。今ニュースになっている原発事故の案件、ほとんど全部フリーランスの記者たちの質問がキッカケなんですよ。二号機の格納容器の漏れ、ベントの遅れ。それからゴムが溶けたという案件、メルトダウン、炉心溶融、プルトニウム、海洋汚染、住民被爆、しかし、それはだれか政府高官や東電が積極的に発表したということにしちゃう。
●日経の記者が実際に「勝俣会長様」とちゃんとマイクを通して会見の場で呼びかけています。日本インターネット新聞社の田中龍作さんが勝俣会長のマスコミ同伴の中国旅行について追及していたんです。マスコミ側が払ったのは、たった五万円です。そのとき、うしろから日経の記者が叫ぶんです。「独りよがりの質問をしてんじゃねぇーよ!」
●今回の震災報道、日本の報道だけ見ていると、読者は「安全だなあ」としか思えない。
●「情報を出さなかったおかげでパニックにならずにすんだ」なんていう人までいる。正しい情報が出されなかったために、正しい対策がとられなかった。とられた対策が適切なものかどうかも判断できなかった。そのために被爆してしまった人がいる。そんな事実よりも、「パニックにならずにすんだ」ことを喜ぶのはおかしい。
●普通の国なら原子力災害時には最悪の事態を想定して国民の生命を守ることを第一優先にしますよ。そしてメディアのほうも東電や政府が隠そうとする情報があったら「なぜ隠すんだ」と追求するのが仕事なんですね。ところが、日本の場合は東電が嘘をつけば官邸も騙され、そしてそれをチェックする機関であるはずのテレビ・新聞も一緒になって騙される。
●ぎりぎりだった自由報道協会の設立。立ち上げたのは、2011年1月26日。オープンな記者会見の場を作ることができた。これが2ヶ月遅れていたならば、震災後、権力側から何の情報も出てこなかったかもしれない。でもホントは、政府の記者会見が解放されそうだった、後もう少しだった。
●いまはiPhoneとかアンドロイド携帯が一台あれば、簡単に生放送ができてしまう時代なので、時代が味方をしている。
●小沢一郎が自由報道協会の記者会見に出てきた段階で、記者クラブの敗北になっていた。桂敬一さんが「ネットの強さですよ。だいたい勝負あったと思います」と言った。
●記者クラブでは各社でメモを共有する。そしてそのメモがデマだったら、間違えて各社でデマを流してしまう。
→これの最たるものが、9月の厚生労働相辞任のときに起こった。
●4-5年前、朝日新聞の本社前の食堂で衝撃を受けた。労働組合のチラシに「今期マイナス1%を要求」と書いてあった。要するに労組が賃下げを要求した。1999年に会社に強硬な要求をした給与担当部長が突然組合自身によって解任されたのは、有名です。朝日は、原発がなくても電力が間に合いそうだということは言わない。その同じ論理で、今の購読料が適正料金なのか説明責任を感じていない。社員の平均年収が1300万円であることが適正なコストなのかってことも説明しない。株も公開されていないから、全く外部に説明しない。
●具体的な原発報道災害の例は、先ずメルトダウン、情報を二ヶ月隠蔽したことでそこから推測される健康被害、人的被害を食い止められなかった。格納容器損傷についても同じ。汚染水も海に漏れている。そして放射性物質の飛散、3月15日の放射線量を発表しませんでしたけど、定点観測では毎時40マイクロシーベルトという強い数値が出ている。飯館村、福島、二本松、郡山、白河、伊達、全部15日までに急激に数値が上がって、今すこしづつ下がっている。






最終更新日  2011年11月25日 23時13分10秒
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2011年11月23日

【送料無料選択可!】春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと (単行本・ムック) / 池澤夏樹/著 鷲尾和彦/写真
文学者の池澤夏樹が今回の震災に対してどのような言葉を紡いでいたのかを確かめたかった。
理学部出身の池澤夏樹が今回の震災と原発事故に対してどのような知見を持っているか確かめたかった。

池澤夏樹は震災の当日、高知県の田舎で一報を聞き、仙台の親戚の叔母のために情報を集め、やがて23日には仙台に行っている。その後、何度も被災地に取材とボランティアで訪れる。行動する文学者の面目躍如であろう。

しかし、その中で生まれる言葉はそれほど衝撃的なものはない。私たちの知見とそれほど変わらない。そのことを私はとりあえず、確認した。

そうか、この数ヶ月の震災体験というのは、「国民的体験」なのだ。この数ヶ月、何を見て、なにを感じ、何をしたか、ということは、これからずっと先、何十年も先、語り継がれるべきことなのである。

もちろん、所々はっとするような言葉はあった。

それならば、進む方向を変えたほうがいい。「昔、原発というものがあった」と笑って言える時代のほうへ舵を向ける。陽光と風の恵みの範囲で暮らして、しかし何かを我慢しているわけではない。高層マンションではなく屋根にソーラーパネルを載せた家。そんなに遠くない職場とすぐ近くの畑の野菜。背景に見えている風車。アレグロではなくモデラート・カンタビーレの日々。

それはさほど遠いところにはないはずだと、この何十年か日本の社会の変化を見てきたぼくは思う。(p97)

 これを機に日本という国の局面が変わるだろう。それはさほど目覚しいものではないかもしれない。ぐずぐずと行きつ戻りつを繰返すかもしれないが、それでも変化は起こるだろう。
 ぼくは大量生産・大量消費・大量廃棄の今のような資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しになることを期待している。
 人々の心の中では変化が起こっている。自分が求めているものはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。(p112)






最終更新日  2011年11月23日 23時06分44秒
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2011年11月16日
「岡本唐貴自伝的回想画集」東峰書房 (1983発行)
この本をなぜ読もうとしたか。それはこの著者が白土三平の父親であるからだ。なぜ父親であるというだけで、読もうとしたか。それは、白土三平にとって父親はとても大きい存在であるのにも拘らず、ほとんど語られてこなかったからである。

この本の存在を知ったのは、「白土三平論」(毛利甚平著)による。途中で図書館の貸し出し期間が終わったので、まだ半分くらいしか読んでいないが、初めて纏まった岡本唐貴の著書に気がついた。

もう一つこの画家に興味を覚えた理由に、わが郷土の人だということがある。

5155笠岡のカブトガニ.JPG
岡本唐貴が生まれたのは、現在の岡山県倉敷市連島町西之浦の腕というところらしい。西之浦は良く知っている。彼の実家はそこの地主みたいなところらしい(いつか調べようと思っている)。父親はそれを嫌って若いときから家に居つかず、職業を転々としている。おかげで唐貴(本名は登)は三歳のときから暫らく笠岡の海のすぐ近くに住んでいた。カブトガニ戯れて遊んだ記憶が鮮明なようだ。その後、長崎に行く。小学校は西浦小学校に入り、その後五年の時に常盤小学校に転校、すぐに西浦に戻りここで卒業している。彼はここの裏山から晴れている時は四国の剣山が雪をかぶっているのが見えたと書いているが、現在はその間に水島と丸亀の工業地帯があり、絶対に無理になった。小学校時代に絵の才能を自ら認めるようになる。しかし、絵が得意な子供は日本中に山のようにいる。私も小学校中学生のころ、絵が得意でいつも五段階評価で五だった。何が彼を絵描きに、しかもプロレタリア画家にしたのか。

5152米騒動.JPG
小学校卒業(1916)後は、岡山市つづいて神戸市に出て、父の家業に従事した。働くことは楽しかったが、父は家業に失敗し、倒産寸前に追い込まれ、古本屋を始める。それを唐貴にまかせた。1917年米騒動と労働争議を目撃。「兵隊が機械的に人を殺すのを見て、言いようのない驚きを感じた」と書いている。驚くのはここまでの経緯が、ほとんど白土三平と酷似しているのである。白土三平(岡本登)も、ものごころ付く時から父親のために引越しを繰り返し、貧乏な環境で過ごし、小学校卒業後から直ぐに働き出し、独り立ち、そしてほとんど同じころに「血のメーデー事件」に出会い、警官が人民を倒すところを目撃している。恐ろしいくらいに似ている。この経緯で思うのが、やっぱり「サスケ」で大猿と同じ道をほとんど疑問もなく歩むサスケの姿である。

唐貴はよく働き、一家を支えるまでになる。その時、父が脳卒中で倒れ、なくなる。1919年唐貴はいったん病を治すために店をたたんで郷里に帰る。直ったころ、遺産分けで50円の現金を手にする。かれはそれで全部油絵の道具を買った。白土三平はこの年のころには既に紙芝居の仕事にかかっていた。物語を作る方向にいっていた事で、少し父親との人生と違いが出始める。

祖父・叔父の仕事を手伝いながら、唐貴は小作人が年貢を納めに来た時の葛藤を体験する。唐貴は帳面を付けているのだが、「葛藤は米の計り方にあり、升目の微妙な計り方が地主対小作の暗黙のたたかいの場になった。斗枡と一升枡の計り方は息を呑むような微妙な呼吸で、米ツブの流し込み方、升のきり方まで、すごい緊張ぶりで私はほとんど感じ入ってしまったことであった。これは農村生活のもっとも基本的な社会的・人間的対立と葛藤の象徴のようなものであることをそのとき深く感じさせられた」と書いている。この文章は私は重要だと思う。当時、小学校卒業で働いていた少年は山のようにいた。しかしほとんどは社会主義者にはならなかった。しかし、唐貴はすでに神戸という都会で一つの店を立ち上げ、運営、終らす体験をしている。その上で、権力が人民を殺す場面も見た。その上でこの封建時代の象徴のような場面をじっくり観察できた。宮沢賢治が金貸しの父親の職業を直感的に人道的立場から嫌っていたのとはまた違い、唐貴の場合は明確に「階級対立」という眼でこれらの職業を観察していたのである。ここから「プロレタリア運動」へは直ぐである。ちなみにこの場面は白土三平の「カムイ伝」の中でほとんどそのまま描かれる。何処かで父親から話を聞いていたのに違いない。

唐貴は画家を志して17歳で神戸に出て、友人浅野孟府に出会う。そして二人で東京に出る。中央美術展で「夜の静物」入選。また、「神戸灘風景」も入選して1922東京美術学校に入学、1923年関東大震災に出会う。駒込の友人宅で震災。一瞬外に出るのが遅かったら、家に押し潰されていたという。坊ちゃんの画家との比較については既に述べた。唐貴はデッサンこそ残さなかったが、比較的詳しくこの日のことを描写している。相当ショックだったみたいだ。短い間に目まぐるしく、描き方が変わったと告白している。暫らく神戸三宮に居て、三宮神社の境内のカフェ・ガスというレストランでサロンみたいな交流をする。アナキスト、新聞記者、学生、労働運動家、詩人、文学的サラリーマン、それに画家、演劇人。

のちの書き方で唐貴はこのように自らの青春を総括している。
「私は神戸で、少年時代労働者街の近くに住み、又青年時代に神戸の東西にある工業地帯で、大きなストライキに出会い、身近な人たちもそれらの動きとの関連があった。私は身をもって社会の底辺におかされたと覚悟した時、生きていく道は、階級闘争のあの生命力をつかむことだと深く感じた。私は三科運動の崩壊を必然と受け止め、方向転換を志した。
 階級闘争の道による人間回復、個人主義から集団主義へ、ペシズムからオプチシズムへ、ダダ的な破壊から、絵画の新しい生命力の回復へ。」
1926年、いよいよ彼はプロレタリア美術運動に入る決心をする。

5153多喜二デスマスク.JPG
1928年、共産党大検挙の巻き添えで第一回目の検挙。1929年、岡山県立美術館にある大作「争議団の工場襲撃」(正確には本人による再生)が完成する。1930年唐貴、結婚。1931年、日本プロレタリア美術家同盟書記長。39年再検挙。共産党に入っていなかったので不起訴になった。そのあと、唐貴は小林多喜二の通夜に立ち会う。つまりは、そのようなところまで唐貴は入っていたということである。唐貴は三時間ほどで多喜二ののデスマスクを写生し終える。この絵はそのときの絵ではなく、この画集の為にもう一度思い出して描いたものである。

5154長女誕生.JPG
1943年、唐貴はあと一年半だと考えて、家族と共に信州に疎開する。この辺りは、非常に正確な情勢判断だった。唐貴は決して政治的人間ではなかったが、生涯をかけて階級闘争を闘うことで当時の情勢のもっとも鋭いところに居たのである。ここにも、情報の多寡が情勢の正しい判断に必要ではないという見本がある。信州で長女が生まれたときの喜びを画集に描いている。

唐貴は戦後を複雑な気持ちで迎えた。「私はプロレタリア美術運動の出直しを、より広汎なより健康な民主主義的美術運動としてやりたかった。ところがふたをあけてみると、政治色の強い民主主義美術運動であった。」唐貴は「中に入ってみなくちゃわからんだろ」という理屈の元に日本共産党にも入党するのであるが、結局約10年後には離党している。唐貴の言う「より広汎なより健康な民主主義的美術運動」の姿は抽象的であり、しかも戦後の高揚とレッドパージが準備されているあの状況下で可能だったのかどうかは分からない。ただ、今の状況下では可能だったかもしれない。唐貴の美術理論は探してみないと分からないし、専門ではない私には理解できない(一部だけ探して読んでみた)が、一旦党に入り、離党し、晩年になって穏やかにプロレタリア美術を一貫して追求したこの姿に、私はやはり白土三平の姿を重ねざるを得ない。

唐貴はこの自伝をあらわして直ぐに他界した。






最終更新日  2011年11月16日 07時46分10秒
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2011年10月22日

「ヤマト王権はいかにして始まったか」唐古・鍵考古学ミュージアム 桜井市埋蔵文化センター 編

本書は2007年10月に行われたシンポジウムをもとに加筆・訂正されたものらしい。新進気鋭の考古学者が集まっていたので読んでみたのであるが、非常に刺激を受けた。以下各自の発表論文の私的メモを羅列する。

【石野博信】
●池上曽根遺跡ではAD50に環濠の溝を埋めた。
奈良盆地で大々的に溝を埋めるのはAD180くらい。
つまり、纒向で「新しいマチ」作りが始まるのがこのころ。水路を作っている。(5m×250m)-基盤整備事業
●纏向遺跡のピークは土器編年で纒向2と3、庄内2と3、布留1-4であろう。
●纒向では生きている人間が墓を見守っているという構造になっているが、吉備では高いところに墓があり、居住地を見守っている。と、いうことは纒向のまだ見つかっていない宮殿等の都は東の山の高いところ、おそらく東大寺山古墳の辺りになるだろう。
●銅鐸工人が鉄つくりに転職したのか
●愛知系土器が一番多い。大和が戦争に勝ったから東海の人間が奴隷としてやってきたのか、あるいは大和が負けて東海の人間がやってきたのか。しかし、土は大和の土を使っている。つまりよそから来て住み着いている。
●卑弥呼共立の主導者は、わたしは楯築の被葬者一族ではないかと予想しています。ただし、マチづくりは吉備と発想が逆転している。

4882箸墓.JPG
箸墓古墳

【橋本輝彦】
●前方後円墳を構成している属性はもともと近畿にはなかったものばかり。しいて言えば、周濠、二重口縁壺、三種の小型精製土器。
●施設(巨大な墓と槨、聖なる空間、円礫・礫推)、呪具(巫女形、家形の土製品、弧帯文様)、墳丘(墳形、葺石、墳丘の巨大化)、立地(丘陵)までが吉備に備わり、北九州は副葬品は真似されている。また、葬送儀礼に関して供献土器にに丹塗りの土器が採用されている。ただし、段築は纒向ではホケノ、石塚、東田大塚ではあったが、吉備にはない。これはヤマト箸墓から波及した。これ以降、浦間茶臼山(岡山)、那珂八幡宮(福岡)、丁瓢塚(兵庫)に波及する。急勾配と盛り土は纒向の特徴。吉備は山の上になる。結論、吉備の力が前方後円墳の出現にかなりの力を与えている。
●纒向の大型建物群築造は3C前半。この時期に纒向の中心人物が居たのだろう。そして廃絶は3C後半になる。50-80年の歴史だった。
●纒向の歴史は、2C末から4C始め。約100年間だった。

3062弧帯石.JPG
楯築遺跡の弧帯石

【松木武彦】
●五世紀において造山古墳のように近畿と肩を並べるような大古墳を作り出せたのは、三世紀に古墳祭祀が生み出せる時に吉備が大きな役割を果たしたという伝統的な威信が保たれていて、ヤマト政権の中での格式が高かったからだろう
●環濠が廃れて墳墓へ←吉備では環濠らしい環濠はなかったのではないか
●画期は三回。
1、須玖岡本、三雲の甕棺墓
2、楯築 AD150年前後
3、箸墓 AD250年 楯築との間に、伝統、神話
楯築は「突如として出現した」鏡がないという特徴があり、あきらかに北九州の系統とは違う。そして墳丘が大きい。おそらく「王の物語」があるはず。
四隅突出墓と比べると楯築ほど、隔絶、飛躍していない。
●p146の図46は興味深い。吉備中心部の3Cの集落がここまで明らかになっていたとは思わなかった。上東が一番中心部で、川入、加茂、津寺に次の集落がある。
●唐古・鍵が大アーケード街とすれば、纒向は郊外のショッピングモール、新しい流通、交通、人の動き方の変化あり
●「私は箸墓を卑弥呼の墓と考えていますが、卑弥呼は倭国の乱といわれる混乱状態の中から、各地の有力者によって共立された人物です。だから、その乱れたなかからの統一の旗印となるためには、正当性を主張しなければならない。そしておそらく正当性の源泉が、人々の記憶や神話や、当時なりの歴史のなかに残されていた、北部九州の王たちと吉備の楯築に葬られた王の後継者たることにあったのだと思います。(略)私は、北部九州の人が奈良盆地に入ってきて武力で制圧したとか、吉備の勢力がそのまま移ってきて箸墓を作ったのだとは考えていません。私はやはり箸墓は、奈良盆地の人々が中心になって作り上げたものだろうと思います。」
●倭国王師升が楯築の被葬者か。中国に107年使いを送ったのであれば、ギリギリ間に合う。






最終更新日  2011年10月22日 09時15分57秒
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