西九州の旅 軍艦島(端島)編
船はいよいよ軍艦島(端島)に近づいて行く。2015年7月 世界文化遺産に登録された日本の近代化を支えた産業遺産である。軍艦島は端島炭鉱跡であるが、ここからは良質な石炭が産出され、燃料や製鉄用原料炭として造船や製鉄・製鋼の分野の近代化に大きく貢献した。 日本は、幕末からわずか半世紀という短期間のうちに、製鉄・製鋼、造船、石炭産業の近代化を自らの力で成し遂げたが、これは西欧以外の地域で初めての出来事だった。この歴史的事実を証明する端島炭鉱を含む23資産は「近代日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録された。 最初は「軍艦島上陸観光見学コース」を団体で申し込んでいたのだが、当日までの間の台風によって桟橋が破壊されたりして、上陸はできないということで「軍艦島遊覧コース」に変更したのだった。 「軍艦島」の概要。長崎半島から西に約4,5km、三菱石炭鉱業があった高島から南西に約18kmの沖合に位置する「端島」。端島は、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1200m、面積約65000㎡という小さな海底炭鉱の島で、護岸が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったという。 船は最初、時計と反対回りで旋回を始めた。このポジションはほぼ正面。桟橋のある左方向に地図にある「総合事務所」など炭鉱の主要部署があったそうだ。その右方向に「貯炭場」さらにその右に電気を使ういわば工場群があた。 歴史を見ると江戸時代後期に、石炭が発見され、80年ほど経過した明治23年(1890)に三菱が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の採掘が開始された。昭和に入り、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより端島炭鉱は閉山。人々は様々な思いを胸に島を去った。 石炭出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、最盛期の昭和35年(1960)には約5300人もの人が住んで、東京都区部の9倍もの人口密度に達した。島の半分以上は鉱場で、残りの土地に社員寮や学校、病院などを建てていて島全体が家族のように暮らしていた。小中学校や商店のど、生活は全て島内で賄えるようになり、映画館やパチンコホールなど娯楽施設も揃っていた。 私も何回か、当時の島の様子を写した動画をテレビで見たことがあるが、凄いというほかない様子だった。 右側の建物が小中学校。 左に見えるのが上陸予定だった桟橋。世界遺産のため、簡単に修理は出来ないらしい。 帰り道、右側に見えてきたのは三菱長崎造船所の香焼工場。100トンドックがある。 沿岸には中小の造船所もある。 この日も外国の観光船 COSTA FORTUNA が入港していた。 参考資料 やまさ海運発行のパンフレット 長崎市の観光情報 世界文化遺産 あの日の夢へ寄港する「軍艦島」他