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2023.08.29
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カテゴリ:牧野富太郎
<らんまん>大窪、万太郎に“愛”の「バ~カ」 「再登場希望」「愛ある言動に泣けた」
8/29(火)

8月29日放送 大学を去ることとなった大窪(今野浩喜さん)の“愛ある言動”が話題

大窪「来年、細田(渋谷謙人さん)がドイツから戻ってくる。やつも最新の植物生理学を持ち帰ってくる。俺は、非職だと」

大窪「たまたまここに就職先があったってだけで……何年ムダにしちまったんだ」
ビジュアル検索クエリイメージ
万太郎は共に研究をし、学名を共同でつけた「ヤマトグサ」の話を持ち出す

大窪「ヤマトグサなんて世の中誰も知らねえんだよ! あんなひょろっちくて……可愛いだけの!」

「昔、言ってたよな? 一生をささげることで植物学に恩返ししたいって。あれ考えてみりゃ傲慢の極みだな。いつまでもてめえが役に立つとか」

万太郎「わしはそのために頑張りますき」

大窪「せいぜい勘違いしてろや。バ~カ」

SNS「大窪さんの愛ある言動に泣けました」
「こんな愛のある『バーカ』を知りません」
「悪態の裏にある相手を思う気持ちがにじみ出る演技でした」
「そこに愛があった(涙)」
「あんなひょろっちくて、かわいいだけの…」


らんまん大窪のモデルは大久保三郎!牧野富太郎と偉業を成し遂げる!
大窪「何か期待でもしてたのか。金につられて戻ってきやがってよ。たかが月給15円じゃねえか」

「おまえ見てると、こっちまで悲しくなってくる!
 ただ尻尾振って標本採ってくるだけの犬じゃねえか。今なら遅くない。辞めろよ」

万太郎は「辞めない」

大窪「古いんだよ、おまえは!地べた這いずる植物学なんぞ、終わったんだ。手間だけ掛かって、見栄えもしない。見向きもされない」
「本当に、人がせっかく忠告してやったのによ。俺は切られたよ」

*​大窪のモデルは大久保三郎さん

日本植物研究の歴史小石川植物園300年の歩み

大久保 三郎(おおくぼ さぶろう)は1857年6月14日(安政4年5月23日)生まれ。
旗本で明治維新後は東京府知事になった子爵・大久保一翁の息子。
大久保一翁は同じ幕臣の勝新太郎とも交流があった。

1871年(明治4年)。アメリカ合衆国のミシガン大学に留学。
植物学を学んだ。その後、イギリスに留学。帰国後は内務省に勤務。
その後は東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調を務め、伊豆諸島、小笠原諸島の植物の研究を行う。

1883年(明治16年)助教授に昇進。
矢田部良吉のもとで働き。矢田部を補佐して標本施設拡充に貢献。

1884年(明治17年)牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りするようになる。

1887年(明治20年)。伊豆諸島を調査。

この年、牧野富太郎たちとともに「植物学雑誌」を創刊。
大久保 三郎は創刊号に巻頭の「本会略史」と「まめづたらん」の記事を書く。

1887年(明治20年)。牧野富太郎は採取した植物に「ヤマトグサ」の和名を付けて「植物学雑誌」に発表。このとき大久保三郎との連名で発表。

・明治二十四年(一八九一)八月、松村任三教授、佐々木忠二郎助教授、石川千代松教授、飯島魁教授、斎田功太郎(大学院)らに理学博士の学位が授与された。
こうしたなか、取り残されたように大久保三郎は相変わらず助教授のままだった。

・明治二十四年(一八九一)三月、日本の植物学を開拓・リードしてきた矢田部良吉が四十一歳で植物学教室を去った。代わって松村任三教授が同年四月一日「帝国大学植物園管理を命ず」の辞令を受け、矢田部に次ぐ二代目の植物学教室主任となった。

・明治二十四年(一八九一)七月、大学院生だった三好学が選ばれてドイツ留学を命じられる。この件について『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』は「矢田部教授の後継者としての黙約ありしものの如し」と書いており、実際、三好は明治二十八年(一八九五)四月に帰国すると、五月には教授に任命されている。
この間の事情について『東京帝国大学五十年史』はいう。つまり、植物学は「植物分類学」と「植物生理学」に分かれているが、本来、それぞれ専任の教授が必要である。現在は松村教授が一人で兼任しているが植物調査や実験に要する時間も多い。「植物分類学」および「植物生理学」を専門教授に任せるために、専任教授を一人増やす必要がある。だから、一人を海外に留学させ、帰国したら教授にする、と。

矢田部良吉が東大を去った後。矢田部に近い人達は東大を去った。
大久保三郎も矢田部との関係で東大を去ったと考えられている。

・明治二十五年(一八九二)から二十八年まで学生だった市村塘が、この頃のことについて次のように書いている。
「植物学では先生は松村教授、大久保助教授だけで、松村先生の講義は Wiesner-Botanikをお読みになる位、大久保先生は実験室へチョイチョイお顔を御出しになる程度のものであった」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「在学当時の追想」市村塘)

・明治二十八年(一八九五)四月二〇日、三好学の教授就任に先立ち、三郎は文部大臣の名によって理科大学助教授を非職を命じられた。地位はそのままで職を免ぜられる、いわゆる休職扱いである。

・東京大学名誉教授の長田敏行は、三郎の非職を「矢田部関係者の一掃」の一環として見ているようだ。日本植物学会ホームページに掲載されている『イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺』に、その根拠が述べられている。
 長田によると平瀬作五郎は安政三年(一八五六)福井県生まれ。図画教員として各地を転々としていたが明治二十一年(一八八八)、理科大学時代の東京大学に画工として奉職した。きっかけは矢田部良吉と一緒に米国留学した中井誠太郎とのつながりで、平瀬の画力を見込んだ中井が彼を矢田部に紹介したのが縁だという。生まれつき器用で研究熱心な平瀬は植物学に興味をもち、それが認められて明治二十三年(一八九〇)に植物学教室の助手となった。そして、明治二十七年(一八九四)にイチョウの精子の発見という世界的大発見をなし遂げる。にもかかわらず、その翌年に東京大学を辞めて彦根中学に移ってしまうのである。
 長田は、「この顛末には、帝國大学を発足させ、明治の教育行政に大きく腕を振るった森有礼が暗殺されて帝国大学内の力関係が変わったため」とし、矢田部に対して動物学教授の箕作佳吉および総長菊池大麓(箕作と菊地は実の兄弟)が仕掛けたものと見ている。さらに、「長年の朋友堀(中井)誠太郎は、矢田部に殉じてというより、大いに抗議して非職となり、山口県の農学校の教員になった」と書いている。さらに、「この間に助教授大久保三郎も非職となっており、この関連で平瀬作五郎も退職したのであろうと推定される。これで矢田部の関係者は一掃ということになる」と結論づけている。
 すなわち、矢田部良吉、中井誠太郎、平瀬作五郎、大久保三郎には矢田部派とでもいうべきつながりがあり、矢田部がターゲットにされたせいでそのシンパも追いやられた、という推測である。

1895年(明治28年)に高等師範学校の教授になり、中学用の植物学教科書の編集などを行うが以後は教育者としての活動が中心になり、論文を書くこともなくなる。

1914年(大正3年)5月23日に死去。





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最終更新日  2023.08.30 00:29:40



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