出典:Wikipedia
現在の上尾市域は
中世まで
農村地帯であったが
用水の確保が困難なため、
水田よりも麦などの畑作が行われていた。
江戸時代に中山道整備の一環として上尾宿が置かれると、
人口約1000人の宿場町ができた。
上尾宿は街道沿いの宿場の中では規模が小さかった。
この頃は
水運が貨物輸送で有利だったため
江戸との運輸交通は荒川を利用した船が中心であり、
船着場のあった平方が
上尾宿より賑わい人口も約1300人あった。
また、
戦国時代から町ができていた
原市も中山道の脇往還として機能していた。
「原市」の由来は、
中世末期に原村といわれていた
吉野原村(現在のさいたま市北区吉野町)から
「宿」の部分が分離して
「原宿」の名が生じ、
後に月に2回の「市」が立った。
この地域は天領・旗本領・寺社領・近隣の
大名の所領が入り組んでいたが、
江戸時代後期には
上尾宿のための
輸送負担を負う助郷として
まとまりが生まれてきた。
1883年(明治16年)に
日本初の私鉄日本鉄道が開通し
上尾駅が開業したことから、
上尾町周辺が発展し始めた。
一方、
平方は荒川水運の衰退にともなって
町としては停滞し
原市も上尾の繁栄から引き離された。
後の上尾市を構成する町村は
引き続き畑作中心の農村で、
大正から1930年代までは養蚕も行われた。
20世紀後半には東京郊外の住宅地として発展し、
1960年代からは工場も増えた。
同時期に建設が始まった日本住宅公団(現:都市再生機構)の
西上尾第一団地・同第二団地は
県内有数の規模である。
原市にも原市団地・尾山台団地が建設され、
1960年から1980年までに人口は4倍へ増加した。
中山道の通る
高崎線東側に比べ
西側は発展が遅れていたが、
急速な宅地開発によって
市街地は拡大し子育て世代の若年人口が継続して流入した。
最寄り駅(上尾駅)から
バスで20分という
田園地帯に建設された
西上尾第一団地・第二団地にまで市街地が達し、
現在も土地区画整理事業や宅地造成が進められている。
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最終更新日
2019.06.28 13:32:19
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