340.帝国海軍と海上自衛隊(20)なにゆえ、かくも千篇一律なのか、不可解というほかはなかった
(ウツボ)「三島由紀夫と自衛隊」は、東部方面総監部に乱入し自決した三島由紀夫と自衛隊の若い幹部の交流を、祐介・剛介が取材した記録と自身の心情を述べた本だ。(カモメ)その中に、杉原祐介氏が海上自衛隊幹部学校指揮幕僚過程の学生のときの記述があるのですね。(ウツボ)そうだね。杉原祐介氏は、「市ヶ谷の幹部学校の中の一本の木に季節の変化を読み取ることができた」と記している。杉原祐介氏の幹部学校の教室は三階にあり、内庭に面した窓際には、プラタナスの梢を見ることができた。(カモメ)杉原祐介氏は、講義の中休みや、何度か聞いたことのある陳腐な講義があるときにも、ときどき、その梢のほうに目をやることがあったのですね。(ウツボ)杉原祐介氏は、「部隊勤務から解放されて一箇年間、かなり自由な時間を与えられる幹部学校の学生生活は、有難いというほかはなかった」と記している。(カモメ)戦略、戦術、後方、指揮統率といった幹部必須の要件が、講義形式で、個人または共同でする自由研究、これに基づく討議、論文、図演等の様々な方法でうまい具合にプログラミングされていたのですね。(ウツボ)また、幹部学校では部内外の講師陣によって、世界情勢や外交、政治、経済、技術といった広い分野の教育が施された。「退屈な陳腐なものもないではなかったが、学校教育のほとんどは、部隊勤務の身で個人的にする勉学では得られないほどの量と質があった」と記している。(カモメ)学生は入校するとすぐ、戦術や統率などの課題が、自らの選択するテーマに従って課せられるのですね。杉原祐介氏も一年間を通じて個人的に研究してまとめる課題のテーマを定め、資料を探したり、文献を調べたりしました。(ウツボ)これらの研究に関し、二、三年前の先輩の残した論文を調べてみたことがあった。しかし、そこには杉原祐介氏の欲するようなものは見当たらなかった。(カモメ)これについて「概念規定から始まり、現状分析、問題点、解決策といった、いわゆる論文形式の論述の中に、創意も説得力のある信念も、参考とすべき論理も汲み取れなかった。なにゆえ、かくも千篇一律なのか、不可解というほかはなかった」と記しています。(ウツボ)杉原祐介氏は、いわゆる論文という形式の概念規定において規定すること自体、あるいは規定のあり方に問題があるのではないかと思ってみた。(カモメ)また、杉原祐介氏は、ひょっとすると、自分の読み方に問題があるのではないか、と疑ってみました。だが、結局、そんなことで悩んでいても、課題の提出期限は待ってはくれないことに気をとられるようになってしまう。秋風が吹き始めて、もうかなりの日数が過ぎていたのですね。(ウツボ)過去の自分の論文に目を通したとき、「自分の限界を超えるものとして天皇というものを戴く以外に統率の道はない」と言う趣旨の文章から、自分が三島由紀夫についても、単なる好奇心や文学的趣味で関心を持っていたのではないと自覚した。(カモメ)こうして、杉原祐介氏は、幹部学校の卒業論文に相当する研究課題「統率について」の答申に、附録として「菊は咲くか」を書き上げたのですね。(ウツボ)そうだね。「菊は咲くか」は、三島由紀夫を研究して、人はいかに生き、いかに死に行くか問いつめて小説風に書き上げた論文ということだ。(カモメ)この幹部学校の卒業論文の附録として書かれた「菊は咲くか」を基調にして、杉原祐介氏の死後、杉原剛介氏がドキュメントとして仕上げて、出版した本が、「三島由紀夫と自衛隊」(杉原祐介・剛介・並木書房)ですね。(ウツボ)そうだね。次は、「潜水艦を探せ」(岡崎拓生・かや書房)について見てみよう。この本によると、著者の岡崎拓生氏は海上自衛隊航空学生(第三期)出身。P2V-7、P-3C等の操縦士。第四航空隊司令、第201航空隊司令等を歴任。一等海佐で平成八年退官。(カモメ)昭和五十三年一月、岡崎拓生三佐は市ヶ谷(現在は目黒)の海上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程(通称CS課程)に入校しました。(ウツボ)期間は一年ちょうど。一クラス二十五名で、皆、高倍率の関門を通り抜けてきた俊秀だった。学生の階級は一尉または三佐(修業までに二佐に昇任する者もいる)だった。(カモメ)ここでは指揮官、幕僚になるための術科素養、戦略、戦術、指揮統率、国際法などを履修すます。(ウツボ)教育は幅広い見地から自由に学び自由に考えるというやり方で、A足すBはCである、というような考え方は少なく、問題提起あるいは素材の提供という形で示され、教官を含めての討論となるようなことも少なくない。(カモメ)「話が上級司令部の方針の批判に及んでも、クーデターを起こそうか、というような方に進んでも、咎められることはない。アカデミック・フリーダムである」と記しています。(ウツボ)「知名人による講話もある。共鳴するものばかりではないが、やはり一流と言われる人の考え方生き方には、啓発されることが多かった」とも。(カモメ)地方研修も多く、北は北海道から、南は沖縄まで、各地の部隊の実情、風土、歴史、人情その他見聞を広めるべく計画されているのですね。(ウツボ)時間的にもゆとりがあって、岡崎三佐は、艦艇、経理補給、整備、潜水艦など、これまで知る機会の少なかった職域の人と交遊を深めることができた。(カモメ)「この学校の良いところは、成績を発表しないことで、優等生も劣等性も等しく機嫌よく修業できた」と記しています。(ウツボ)幹部学校修了者は、既に勤務経験のある者を除いて海幕勤務にするという方針が実行されてきた。(カモメ)クラスの半数近くが該当者で、岡崎三佐も防衛部運用課運用班オペレーション室勤務になったのですね。(ウツボ)そうだね。さて、今回は帝国海軍と海上自衛隊を一面的というか、斜めから見てきた形になってしまったのだが、枠組みの制限もあるので、ここらで、お開きとしましょう。(カモメ)一面的ではなく、もっと両者を詳細に比較して列挙する方法もとりたかったですね。(ウツボ)そうだね。だけどそれは、二十回位では無理だったね。いつかやりましょう。(今回で「帝国海軍と海上自衛隊」は終わりです。次回からは「戦争と文学・陸軍」が始まります)