320.帝国陸軍と陸上自衛隊(20)初期の防衛駐在官は大使館で肩身の狭い思いをしていた
(カモメ)幼年学校出身の駐イタリア大使館付武官は、酒井康中将(陸士二四恩賜・陸大三二首席)、有末精三中将(陸士二九恩賜・陸大三六恩賜)など。(ウツボ)「有末精三回顧録」(有末精三・芙蓉書房出版)によると、当時の駐在武官の待遇の様子が記されており、その華やかさが伝わってくる。(カモメ)筆者の有末精三少佐は、昭和十一年八月一日、歩兵中佐に進級と同時に、イタリア在勤帝国大使館附武官に補せられましたね。(ウツボ)そうだね。ローマに赴任した有末中佐は、イタリア陸軍主催の会合に招かれた。イタリア陸軍大臣パリアーニ将軍の大臣応接の大広間に関係者一同が集められ、大臣自ら有末中佐を紹介した。(カモメ)そのときの感想を有末は「ことに作戦部長のメンタスティ少将は、われわれ新旧武官が親しくかつてトリノ陸軍大学での主任戦術教官として教わった関係から、非常に喜んで元気付けられたのは、新しく着任した私の前途に大きな光明を与えてくれた」と述べています。(ウツボ)武官室は、エチオピア攻略後、その地方のアスマラ市の名にちなんでつけられた新市街ともいうべきアスマラ街七番地に独立した地下一階、地上三階の立派なヴィラだった。(カモメ)陸軍省外国武官掛のアンジョイ大佐を訪問したところ、有末中佐が、トリノの陸軍大学を中途退学したにもかかわらず、卒業徽章を有末中佐の勲章略綬の上に刺してくれたのです。(ウツボ)この徽章は、金色の鷲の中にイタリアの三色旗(国旗)の七宝焼をはめ込んだ金色のピンだった。(カモメ)出会うイタリア陸軍軍人は、「貴方はトリノ陸大の卒業ですか?第何期生(第五十九期生)ですか?」と、イタリア陸軍のよき理解者と判定し、何かにつけて有末中佐に便宜を与えてくれたのですね。(ウツボ)そうだね。陸軍軍人に限らず、面会した皇帝陛下、ムッソリーニ首相を始め海空軍将校、各界有識者、有威力者もその例外ではなかった。このときの嬉しさを有末は次の様に述べている。(カモメ)読んでみます。「その上、サンモウリス四等勲章ももらっていたので、いよいよ親イタリア日本武官の標識をあらわにすることができたのは、何よりも気持ちの良い思いでであった」。【陸上自衛隊・防衛駐在官】(ウツボ)それでは、次に、戦後の自衛隊の駐在武官を概略だが、見ていこう。自衛隊の駐在武官は、「防衛駐在官」が正式名称だね。(カモメ)外務省と防衛庁で平成十五年に交わされた「防衛駐在官に関する覚書」で防衛駐在官の待遇は向上したのですが、初期の防衛駐在官は大使館で肩身の狭い思いをしていたのです。(ウツボ)「いびつな日本人」(栗栖弘臣・二見書房)によると、著者の元統幕議長の栗栖弘臣氏(東大卒・陸将・陸上幕僚長)は昭和三十二年から三十六年までフランスの防衛駐在武官だったが、そのときの情報活動費は一文もなかった。(カモメ)スタッフなど一人もいなかったのです。階級は二佐であったから大使館では二等書記官、つまり大使館員としては末席でした。部屋も大部屋で入り口に一番近い席でした。だが、最近では防衛駐在官に独立した部屋を提供し、秘書をつけてくれる例がたくさん出てきました。(ウツボ)フランスにおける軍人の地位の高さには驚かされた。フランスでは駐在武官は「参謀総長の代理」とみなされ、フランス側から招待される時には大使と武官に声がかかってくる。(カモメ)ところが、たまに大使の招宴があって先方の偉い人がやってくると日本側の駐在武官の席は書記官の末席になり、先方がびっくりしました。(ウツボ)「大本営参謀の情報戦記~情報なき国家の悲劇」(堀栄三・文春文庫)によると、著者の堀栄三氏(陸士四六・陸大五六・陸将補)は昭和三十四年、戦後初代の駐ドイツ防衛駐在官の辞令を受けた(カモメ)堀一佐は情報収集に走り回ったが、スタッフもいない「ひとりぼっちの武官」だったのです。赴任前に助言をもらった戦前元ドイツ駐在武官だった大島浩氏(陸士一八恩賜・陸大二七・中将)も日本で、まさか防衛駐在官がこんなであろうとは思ってもいないだろうと感じました。(ウツボ)これが戦後のアタッセの、悲しいかな本当の姿だった。次に最近の防衛駐在官を概略だが見てみよう。(カモメ)「日本大使館付駐在武官」(海辺和彦・徳間書店)によると、防衛駐在官になるには、CGS(幹部学校指揮幕僚課程)を卒業していなければならないと記してあります。(ウツボ)外務省と防衛省の話し合いで、「CGS合格者なら国家公務員上級試験(第一種試験)合格ということでスライドしましょう」となっている。(カモメ)以前は、一佐は外務省に出向する形で「一等書記官兼防衛駐在官」、二佐は「二等書記官兼防衛駐在官」にスライドして呼称されていましたが、平成十五年の「防衛駐在官に関する覚書」では「防衛駐在官・一等陸佐」、「防衛駐在官・二等陸佐」に改められました。(ウツボ)一九九一年三月まで三年間、ユーゴスラビアの首都、ベオグラード(現セルビア共和国首都)の日本大使館に勤務した佐藤喜久二防衛駐在官は、夜間大学出身だ。(カモメ)佐藤氏は高校卒業後陸上自衛隊に入隊、一般隊員でありながら、私立大学夜間の機械工学科に通学したのです。(ウツボ)その後幹部候補生学校に合格して幹部になった。任官後、民間会社でコンピュータ・プログラムを学び、欧米研修制度で外国に派遣された。その後、CGSにも合格した。(カモメ)防衛駐在官は防衛大出身(B)が主流ですが、一般大学卒の幹部(U)も増えているということです。防衛駐在官も実力本位ということでしょうか。(ウツボ)どんな仕事でもそうだろうね。(カモメ)「日本大使館付駐在武官」(海辺和彦・徳間書店)によると、昭和五十年代頃からの海外で活躍する防衛駐在官の実態が取材されていますが、初期の駐在官よりは待遇が改善されて、重要な仕事に取り組んでいるのが分かりますね。(ウツボ)そうだね。さて、これまで帝国陸軍と陸上自衛隊を比較しながら見てきたが、それぞれの組織的実情と運用は、その背景を構成している要因によって決まってきたようだね。(カモメ)その要因とは、根本的には、天皇統帥とシビリアン・コントロールということでしょうか。(ウツボ)そのようだね。科学の進歩、政治形態・国際情勢等にも当然左右されたけどね。(今回で「帝国陸軍と陸上自衛隊」は終わりです。次回からは「帝国海軍と海上自衛隊」が始まります)