110.海軍空挺作戦(10) 俺は嘘は言っていないよ。本当のところ日本の国力ではこれがせいいっぱいなんだ
(カモメ)サイパンに帰った山辺大尉は唐島部隊長に報告しました。この潜水艦奇襲部隊は、佐世保鎮守府一〇一特別陸戦隊と命名され、通称「S特部隊」、作戦を「S特作戦」と呼称した訳です。(ウツボ)そうだね。隊長に山辺大尉が任命された。中隊編成で四個小隊より成っていた。一個小隊は四個分隊で、一個分隊は十名だった。(カモメ)内地から艦政本部の技術士官がサイパンに派遣されて、時限式爆弾、焼夷弾の実験が開始されたのですね。(ウツボ)そうだが、ところが、この時限爆弾や焼夷弾はお粗末なものであったので、山辺大尉は再び、東京へ飛んで軍令部にもっと優秀な兵器があるはずでしょう」と要求したんだ。(カモメ)これに対し軍令部の部員は「俺は嘘は言っていないよ。本当のところ日本の国力ではこれがせいいっぱいなんだ。君の隊にはこれまで、どんな要求でも入れて、他には比べものにならないほどの優秀な兵器をやっているつもりだ」と涙を流しながら語ったということです。(ウツボ)消耗に消耗を続け、今では貧乏海軍になってしまっていたんだね。口の悪いパイロットが山辺大尉に言ったことがあった。「世界の三大不要物は、ピラミッドと万里の長城、それに戦艦大和だ」と。(カモメ)山辺大尉は「大艦巨砲主義の迷夢醒めやらず、英国海軍型紳士教育で鍛えられた頭を、もっと効率の国、アメリカ型に切り替えない限り、議論しても無駄だろうと思った」と記されていますね。(ウツボ)山辺大尉はトラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部にS特部隊編成の挨拶に行った。そのとき古賀峯一連合艦隊司令長官が山辺大尉に自ら揮毫して色紙をくれた。(カモメ)そのあと、山辺大尉のS特部隊は、ラバウルの南東方面艦隊司令部の作戦指揮下に入りましたね。(ウツボ)うん。それで、昭和19年2月下旬、ラバウルを基地として作戦を展開することになったんだ。S特部隊はサイパンの残りの落下傘部隊と別れを告げラバウルとトラック島に分散移動した。(カモメ)ところが昭和19年6月15日、突如として米軍はサイパン島に上陸を開始した訳です。(ウツボ)トラック島の山辺大尉以下百二十名のS特部隊の隊員はあっけにとられた。(カモメ)同時に、山辺大尉はそのとき愕然としたそうですね。サイパンにはまだ帰国していない邦人の婦女子が多数いたから。(ウツボ)サイパンの落下傘部隊の部隊長・唐島中佐以下六百五十名は米軍上陸の第一夜に、敵上陸点に強襲を決行した。その結果、三十人くらいを除いて全滅した。(カモメ)そうですね。生き残った三十人もサイパン島が陥落したときには、捕虜数人を除いて全員戦死していたそうです。(ウツボ)トラック島のS特部隊にもサイパン逆上陸の命令が下った。輸送用の潜水艦が夏島港に入港し、百二十名の隊員の出撃準備も整った。(カモメ)だが敵艦隊撃滅のため、サイパン島に展開した味方潜水艦が七隻とも撃沈されたため、サイパン島逆上陸は中止されました。そしてそのまま終戦となったのですね。(ウツボ)一方、「堀内海軍大佐の生涯」(光和堂)によると、初代落下傘部隊部隊長堀内中佐はメナド降下作戦後、昭和18年1月台湾東港海軍予備学生教育主任・高砂族教育主任となって台湾に赴任。同年12月重巡高雄副長、昭和19年5月海軍大佐に昇進した。(カモメ)そうですね。昭和20年3月海軍兵学校教官兼監事。同年7月呉鎮守府第十一特別陸戦隊司令。同年8月15日終戦で復員しました。(ウツボ)ところが昭和22年1月B級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容された。昭和23年1月北スラウェシのメナドで軍事裁判が開かれオランダ軍により起訴されたんだ。 (カモメ)メナド降下作戦後、約一年間、堀内中佐は占領したインドネシアで司令として現地で職務についていました。(ウツボ)堀内中佐は現地人に慕われていた。温厚な占領政策を行い、現地人とも日本人同様に親しく付き合った。(カモメ)容疑はメナド降下作戦および占領期間中起きた部下のオランダ兵に対するトラブル、事件に対するものであったのですが、明らかにオランダ軍の報復裁判の様相でした。(ウツボ)それはね、メナド降下作戦のときの守備のオランダ軍の隊長の中佐が自ら裁判長となって裁判を行なったからだ。(カモメ)昭和23年5月12日死刑の判決。9月25日メナドで銃殺刑に処せられました。堀内大佐は四十七才でした。(ウツボ)だが、真実は日本人にも当然伝わり、堀内大佐は昭和44年11月の叙勲で正五位三等旭日中綬章を受けている。(カモメ)遺族の無念さも少しは和らいだでしょう。(ウツボ)そうだとよいが。深い悲しみは、癒されることはないと思うね。敗戦国の悲哀だね。(「海軍空挺作戦」は今回で終わりです。次回からは「アッツ島玉砕」が始まります)。