400.陸軍駐在武官(20)ヒットラーは「工作は固く断る。ドイツは必ず勝つから心配なく」と言った
(ウツボ)独ソ戦におけるドイツの劣勢は、ドイツ当局の発表には少しも現れていないので、ドイツ大使もドイツ駐在武官もそれを信じて疑わなかった。(カモメ)ドイツ軍の戦力が明らかに低下の兆候を示しだしたのは昭和十六年十月です。日本では十月十八日に東條内閣が成立しました。(ウツボ)日本はドイツの優勢を信じ切って、その片棒を担ぐつもりであると見て取った小野寺大佐は、必死になって「開戦反対」の意見具申を東京へ送り続けた。(カモメ)東京からはたった一回、「反対の理由如何」という問い合わせがあっただけでした。小野寺大佐は、ドイツの勢力はすでに下降に向かっていることを具体的に説明し、ドイツはソ連に敗戦する、ドイツの片棒を担ぐような開戦は絶対にあってはならないと主張したのですね。(ウツボ)そうだね。小野寺大佐が中央に出した「開戦反対」の電報は三十数通に及んだが、参謀本部は取り合わなかった。(カモメ)この件については、昭和六十年十二月にNHK特集「日米開戦不可ナリ~ストックホルム・小野寺大佐至急電~」のタイトルでテレビ放映されていますね。(ウツボ)小野寺大佐の戦況分析通り、昭和十八年二月、ドイツはスターリングラードで敗北した。それ以後ドイツの敗色はつるべ落としに日を追って濃くなっていった。(カモメ)小野寺信大佐は昭和十八年八月、陸軍少将に昇進しました。その年の九月にはイタリアが無条件降伏して三国同盟から脱落しました。(ウツボ)昭和十九年六月には英米仏の連合軍がノルマンディに上陸、破竹の勢いでライン川を目指して北上した。(カモメ)一方、ソ連は昭和十九年フィンランドを再度攻撃し降伏させ、北からベルリン目指して大進撃を開始したのです。ドイツは南と北の両方から攻められ、苦境に陥っていきました。(ウツボ)昭和二十年三月二十五日、ベルリンの武官・小松光彦少将(高知・陸士二九・陸大三八・兵務局兵備課長・ドイツ武官補佐官・少将・昭和十八年一月ドイツ駐在武官・中将)から次の内容の電報が小野寺少将に届いた。(カモメ)読んでみます。「大島大使が折り入って相談したいから、至急ベルリンへ来い。厳秘事項だから、岡本公使にも東京にも一切知らせるな。独瑞間の航空路は独逸空軍が責任を持って援護する」。(ウツボ)小野寺少将は木越補佐官とともにストックホルムを出発、三月二十八日にベルリン入りをした。ベルリン市内はすでにバリケードを張り巡らした物々しい防衛態勢だった。(カモメ)大島大使を中心とする会議は、その日の午後、ティアガルテンの大使館で開かれました。小野寺少将が出席してみると、メンバーは大使館から河原駿一郎公使と内田藤雄一等書記官、軍からは小松武官と甲谷補佐官だけでした。会議の内容は次の通りです。(ウツボ)読んでみよう。「ドイツ外相リッペントロップは、この期に及んでドイツを救う道は唯一つ、ソ連と至急に休戦することで、一九三九年のリッペントロップ・モロトフ協定に戻すことだと信じている。そして、彼はドイツ外相として政治家としてこれをやるのを自分の義務だと思っている」(カモメ)「ついてはストックホルム在勤のソ連公使マダム・コロンタイを通じ、モロトク、リッペントロップ会談の斡旋を小野寺武官に頼んでもらいたいとの申し入れである」。(ウツボ)この情勢下でスターリンがドイツの誘いに応じる可能性はないだろうが、結局、小野寺少将が仲介工作を引き受けることになった。大島大使は直ちにリッペントロップを訪問してその旨を伝えた。(カモメ)その夜のベルリンは未曾有の大空襲に見舞われ、完璧を誇る大使館の防空室さえ今にも崩れるかと思われるほど大揺れに揺れました。(ウツボ)翌日の夜、大島大使がリッペントロップに呼ばれ、ヒットラーの意向が伝えられた。ヒットラーは「工作は固く断る。ドイツは必ず勝つから心配なく」と言ったという。(カモメ)リッペントロップは大島大使に「小野寺にはくれぐれもよろしく。仲介工作の可能性は絶無ではないから、その節に備えて準備だけはしておくように伝えてくれ」と言いました。(ウツボ)昭和二十年四月二十九日、例年の通りストックホルムの公使館では天長節のレセプションを催した。ベルリン陥落を目前にしたこの日だったが、ドイツ公使も武官たちも平生と少しも変わらない堂々とした態度を崩さず、館員全員が出席していた。(カモメ)五月一日の夜、「われらの総統は戦死した」というベルリンからの沈痛なニュースが入りました。次いでデニッツ提督の総統就任が告げられました。五月八日、ドイツ軍は連合軍に無条件降伏をしたのです。(ウツボ)やがて、昭和二十年八月十五日、日本は終戦した。小野寺少将と百合子夫人はストックホルムで終戦を迎えた。(カモメ)翌年の昭和二十一年一月二十日、マッカーサーからヨーロッパにいた日本人全てに帰国命令が出て、小野寺少将夫妻は三月二十四日帰国しました。(ウツボ)帰国後小野寺信少将は戦犯としてその年の七月まで巣鴨プリズンに拘留された。戦後は、小野寺信氏は妻百合子とともにスェーデン語の翻訳家となり、同時にスェーデンの文化普及活動を行った。(今回で「陸軍駐在武官」は終わりです。次回からは「海軍駐在武官」が始まります)