50.人間魚雷回天(10) 回天隊のシンボルの額が十文字に切り裂かれていた
<ウツボ)アメリカ側の資料では、日本の大本営発表こそ華々しかったが、回天が沈めた戦艦、空母はなさそうだ。(カモメ)戦艦、空母は対潜防御が厳しく、近づく事すらできなかったのが実情ですね。結局は輸送船団あたりを目標にせざるを得なかった。(ウツボ)回天戦全体で、実際には、アメリカ側の記録では、回天は大型タンカー「ミシシネワ」と駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈し、その他駆逐艦2隻を大破、輸送船等に被害を与えたとになっている。(カモメ)だとすれば、潜水艦の本来の魚雷攻撃で充分であり、わざわざ人間を載せた人間魚雷を使用しなくてもよかったはずですね。(ウツボ)そう簡単に良い切れはしないと思いますが、だけど回天は潜望鏡を出したまま敵艦を追いかけるのではない訳でね。潜望鏡を出しても高速で走れば波のしぶきで全く見えない。だから敵艦に当てるのは相当な熟練と技術が必要とされる。だが、特攻隊の戦闘機と同じ様に、大部分が訓練が充分でないまま出撃した。(カモメ)攻撃方法は簡単に言えば、敵船の進行方位、速度を把握して、回転の現在位置から、激突する射角(方位角)を割り出し、基本的に一直線に突っ込むのですね。(ウツボ)だから、それはつまり、基本的には潜水艦が魚雷を発射する方法とほぼ同じ訳でね。(カモメ)回天の操縦は複雑で難しいらしかったですね。訓練中に十五名が事故死しています。(ウツボ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると、飛行機による特攻を「神風特攻」と呼ばれたのに対して、回天による特攻は「神潮特攻」と呼ばれた。(カモメ)だけど、当時の回天特攻隊員たちは、この名称を嫌がったといいますね。(ウツボ)そうらしいね。ところで、実績はともかく、アメリカ軍は、回天にはたいへん神経を悩ませたことは事実だ。(カモメ)終戦直後の話ですが、マニラに飛んだ日本軍の軍使に対してマッカーサー司令部の参謀長、サザランド中将が、最初に質問した話がありますね。(ウツボ)「回天を搭載した潜水艦が何隻洋上に残っているか」だろう。(カモメ)そうですね。日本側が「約十隻」と答えると、「それはたいへんだ、一刻も早く行動を停止するように厳重な司令を出してくれ」と言った。(ウツボ)「ああ人間魚雷回天」(両文堂)によると昭和20年8月15日正午からの終戦の玉音放送を回天搭乗員達は聞かされなかった。(カモメ)そうらしいですね。そのことから混乱と不信が始った。なぜ聞かせなかったか、その理由を基地幹部たちは戦後も口を閉ざして語らなかった。(ウツボ)指揮官であった、板倉光馬少佐はその著書で「八月十五日声涙ともにくだる玉音を耳にしたとき」と記している。(カモメ)放送を知っていながら搭乗員には聞かせずに自分は聞いていたことになる。(ウツボ)だが、搭乗員は翌16日に終戦を知った。そして呉鎮守府司令長官・金沢正夫中将が大津島に飛来し「天皇の御言葉により回天隊を解散する」と告げ、全ては決したという。(カモメ)大津島の回天基地の士官室の階段の踊り場に掲げられていた回天隊のシンボルの額が十文字に切り裂かれていたという話があります。(ウツボ)そう。もう一つある。士官食堂の前の涼み台にぶらさがっていたヘチマが、ものの見事に、袈裟懸けにバッサリ切られていたというんだね。(カモメ)回天搭乗員の誰かが海軍刀で切ったのでしょうね。(ウツボ)誰がやったとは記されていないから、それは分からないけれども、回天搭乗員達が終戦を知って、それまで抑圧されていた心境が開放されたということはあるだろうね。(カモメ)基地の上官の誰かを頭に描いてヘチマをバッサリやったとか。(ウツボ)それは穏やかな話ではないね。だけど当時穏やかになれというのは無理な話であったでしょうね。しかし、カモメさんの言うように上官を頭に描いてやったかどうか。(カモメ)とにかく気持ちが爆発して、バッサリやったと。(ウツボ)そうですね。張り詰めていた気持ちが一挙に崩壊して、過去に自分達の置かれた状況に対する不満、戦争に負けたくやしさ、などが噴出したのではないかと思います。想像の話ですから、分かりませんけどね。(カモメ)回天戦では海兵出身も頑張ったけど、学徒出陣の予備学生の若者もよく頑張りましたね。(ウツボ)いつも第一線で活躍したり、犠牲になるのは、若い人たちだね。現在の企業でも同じではないかと思いますが。 (「人間魚雷回天」は今回で終りです。次回からは「硫黄島玉砕」が始ります)