380.戦争と文学・海軍(20)海軍特別幹部練習生とは名ばかりの無残な特攻部隊だった
(カモメ)次は、城山三郎(しろやま・さぶろう)ですね。昭和二年八月十八日生まれ。本名は杉浦英一。愛知県名古屋市出身ですね。(ウツボ)そうだね。名古屋市立名古屋商業学校を卒業し、愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学した。在学中に帝国海軍に志願、海軍特別幹部練習生として、伏龍部隊に配属された。(カモメ)理科系の徴兵猶予を返上して、「お国のために尽くそうと」意気揚々と海軍を志願した城山三郎を待ち受けていたのは、海軍特別幹部練習生とは名ばかりの無残な特攻部隊だったのですね。(ウツボ)そうだね。伏龍部隊というのは、潜水具で関東周辺の海の底に潜り、先端に機雷を取り付けた二メートルの棒を持ち、海底を歩きながら、上陸して来る敵の上陸用舟艇を待ち受け、真上に来た敵舟艇の底を突き、機雷を爆発させるという特攻部隊だ。(カモメ)自分も機雷の爆発で木っ端微塵になるという、無残な特攻兵器ですね。(ウツボ)城山三郎はこの伏龍部隊で訓練中に、終戦を迎え、生き延びたが、もし、終戦がなかったら、城山は潜水服を着け、海の底に潜っただろう。結局、そこには、消耗品としての死が待っているだけの残酷な作戦だった。(カモメ)「私の履歴書」(日本経済新聞社)の中で、海軍特別幹部練習生の時のことを、城山は「これほど非人間的というか、非常識な訓練や生活を強制していたのは、おそらく世界歴史にもその例がないであろう」と憤りをもって記していますね。(ウツボ)ちなみに、この伏龍という特攻兵器は、当時軍令部第二部長だった黒島亀人海軍少将(広島県呉市出身・海兵四四・海大二六・連合艦隊先任参謀・少将・軍令部第二部長)が考案したと言われている。(カモメ)戦後、昭和二十七年に城山三郎は一橋大学を卒業しましたが、大学在学中に洗礼を受けたのですね。その後、愛知学芸大学教官助手、文学専任講師を歴任しています。(ウツボ)昭和三十八年に愛知学芸大学を退職し、作家業に専念する。ペンネーム「城山三郎」は住居の近くにあった城山八幡宮から採った。(カモメ)城山三郎は、昭和三十二年に「輸出」で第四回文学界新人賞しました。その後、昭和三十四年に「総会屋錦城」で第四十回直木賞、「落日燃ゆ」で吉川英治文学賞、毎日出版文学賞、平成八年「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」で第四十四回菊池寛賞、平成十四年朝日賞を受賞しています。(ウツボ)主な戦記著書に、「大儀の末」(新潮文庫)、「指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)、「一歩の距離 小説・予科練」(文藝春秋)、「忘れ得ぬ翼」(角川文庫)、「硫黄島に死す」(新潮文庫)などがある。(カモメ)城山三郎は平成十九年三月二十二日、肺炎のため、神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去しました。享年七十九歳でした。(ウツボ)最後に、吉村昭(よしむら・あきら)を概略だけでも、見てみよう。昭和二年五月一日生まれ。東京府出身。製綿工場経営者の八男。昭和十五年旧開成中学に入学。在学中に日本文学に親しんだ。(カモメ)昭和十九年母が子宮ガンで死去しました。昭和二十年三月戦時特例による繰上げ卒業。十二月父がガンで死去しました。(ウツボ)昭和二十二年旧制学習院高等科分科甲類入学するも翌年結核で喀血し胸郭成形手術を受け、左胸の肋骨五本を切除した。この大病で吉村昭は学習院高等科を退学している。(カモメ)吉村昭は昭和二十五年学習院大学文学科に入学します。昭和二十七年同大学文芸部委員長になり、短編を「学習院文藝」に発表しています。川端康成や梶井基次郎に傾倒したのですね。(ウツボ)だが、学費を長期滞納していたため、吉村昭は昭和二十八年三月学習院大学を除籍処分された。十一月、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家・津村節子)と結婚。(カモメ)繊維団体の事務局に勤めながら、吉村昭は、丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」などに短編を発表しながら、創作活動を始めました。(ウツボ)だが、吉村昭は、昭和三十四年「鉄橋」が第四十回芥川賞候補に、「貝殻」が第四十一回芥川賞候補に、昭和三十八年「透明標本」が第四十六回芥川賞候補に、「石の微笑」が第四十七回芥川賞候補になるがいずれも受賞しなかった。昭和四十一年には妻の津村節子が芥川賞を受賞した。(カモメ)でも、その昭和四十一年に吉村昭は「星への旅」で第二回太宰治賞したのですね。その後昭和四十七年「深海の使者」で第三十四回文藝春秋読者賞、昭和四十八年「戦艦武蔵」「関東大震災」などで第二十一回菊池寛賞を受賞しています。(ウツボ)さらに昭和五十四年「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞、昭和六十年「冷い夏、熱い夏」で毎日芸術賞、「破獄」で読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、昭和五十六年日本芸術院賞、平成六年「天狗争乱」で大佛次郎賞を受賞している。(カモメ)吉村昭は平成九年には日本芸術院会員になっています。平成十五年には妻の津村節子も日本芸術院会員になっています。平成十六年日本芸術院第二部長に就任。(ウツボ)吉村昭の主な戦記著書は、「戦艦武蔵」(新潮社)、「大本営が震えた日」(新潮社)、「零式戦闘機」(新潮社)、「陸奥爆沈」(新潮社)、「空白の戦記」(新潮社)、「海の史劇」(新潮社)、「深海の使者」(文藝春秋)、「海軍乙事件」(文藝春秋)など。(カモメ)吉村昭は平成十八年春に舌ガン、さらにすい臓ガンも発見された。手術後、退院したが、もはや原稿依頼には応えられなかったのです。(ウツボ)同年七月三十日夜、東京都三鷹の自宅で療養中に、看病していた長女に、「死ぬよ」と告げ、自ら点滴の管を抜き、首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の七月三十一日午前二時三十八分に死去した。享年七十九歳だった。(カモメ)自ら生命を絶ったのですね。それも長女に「死ぬよ」と言って。このような話はあまり聞いたことがありません。(ウツボ)そうだね。だけどね、「死ぬよ」は、歴史の真実を追究することに非常にこだわった冷徹な大作家、吉村昭らしい言葉といえる。西田幾多郎の「死は月よりも美しい」もそうだけど、死について考えさせられるね。(カモメ)「死に方」、特に、歴史的に偉大な人物の最後の瞬間を詳細に知りたいですね。(ウツボ)そのような内容の本は確か、出版されているよ。今度、俺も読んでみたいな。(今回で「戦争と文学・海軍」は終わりです。次回からは「陸軍駐在武官」が始まります)