540.陸軍大将異聞(40)塚田中将は公務以外、寺内大将とは一切口をきかなかった
(カモメ)当時参謀本部員で少佐だった陸軍士官学校同期の今村均(いまむら・ひとし)大将(宮城・陸士一九・陸大二七首席・参謀本部作戦課長・歩兵第五七連隊長・少将・関東軍参謀副長・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・教育総監部本部長・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・戦犯としてヌマス島服役)は、当時の塚田攻少佐を次のように評しています。(ウツボ)読んでみよう。「謹厳一点張りの武人だった。女人のはべる料理屋などに行く事は身の汚れとなるし、酒食間の雑談などは不経済の時間浪費に過ぎないと信念していた」。(カモメ)出張先では、絶対に生ものを口にせず、女性の入った風呂には絶対に入らなかったということです。(ウツボ)塚田攻少佐は、大正十四年十二月陸軍大学校教官。昭和二年五月歩兵中佐(四十一歳)、歩兵第六八連隊附。昭和三年参謀本部作戦班長(~昭和六年)。昭和六年三月歩兵大佐(四十五歳)、台湾軍歩兵第二連隊長。(カモメ)昭和七年二月陸軍歩兵学校教官、六月陸軍省兵務課長。昭和八年八月関東軍第一課長。昭和十年八月少将(四十九歳)。昭和十二年十一月中支那方面軍参謀長。(ウツボ)塚田少将は、昭和十三年三月陸軍大学校長、七月中将(五十二歳)、十二月第六師団長。昭和十五年十一月参謀次長。昭和十六年十一月南方軍総参謀長。(カモメ)昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦。この開戦の日、南方軍総参謀長・塚田中将は「天の叢雲(むらくも)の剣は、遂に抜き放たれた」と大声で張り叫んだのですね。(ウツボ)そうだね。この天の叢雲の剣は三種の神器の一つで、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のこと。三種の神器は日本神話で天照大神から授けられた鏡・玉・剣で、歴代天皇が継承して来た三種の宝物。(カモメ)天叢雲剣は、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の異名で、熱田神宮の御神体となっていますね。三種の神器の中では、天皇の持つ武力の象徴となっています。(ウツボ)当時の南方軍総司令官は寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将(山口・陸士一一・陸大二一・伯爵・少将・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・第四師団長・台湾軍司令官・大将・教育総監・北支那方面軍司令官・南方総軍司令官・元帥・戦犯としてマレーシアで勾留中に病死・勲一等)だった。(カモメ)第一六軍司令官・今村均中将がサイゴンの南方軍総司令部に到着し、寺内大将と会食した時でも、今村中将と陸士同期である総参謀長・塚田中将は会食に出席しなかったのです。(ウツボ)「相変わらずだな」と今村中将は分っていたので、「塚田中将はどうした?」などとは聞かずに、泰然としていた。当時、塚田中将は公務以外、寺内大将とは一切口をきかなかったと言われている。(カモメ)塚田攻中将は、昭和十七年七月第一一軍司令官。昭和十七年十二月十八日南京から第一一軍司令部のある漢口への帰途、飛行機事故で殉職。没後大将進級。享年五十六歳でした。(ウツボ)塚田攻大将の遺著「原元録」(塚田攻・偕行社)は、塚田中将が昭和十三年陸軍大学校長時代に綴り、昭和十五年にまとめて冊子にしたものを、塚田攻大将の死後、昭和十八年に偕行社から刊行された。(カモメ)その序言に、塚田大将は、書名の「原元録(げんげんろく)」の「原元」について、次の様に記しています。(ウツボ)読んでみよう。「原元とは何ぞや。夫れ『大日本は神国なり』、神国の始めを原(たず)ねて、元を元とし正に反(かえ)る之を原元という」。(カモメ)「まごころ」に生まれ、「まごころ」に活き、「まごころ」に死んで、忠誠を完成するのが、「原元の本義」であると。(ウツボ)さらに「惟(おも)うに神国日本の本国体、大義名分を究め、之を基調として道徳、文武、学業等に関する指導原理を把握し実践するは、之神国日本軍人たる吾人の修養であり、職分であると信じる」とも述べている。(カモメ)本文は「神勅」から説き起こし、「修理固成、八紘一宇、天壌無窮は大日本の使命、理想、天業なり」と記して、藤田東湖、吉田松陰、北畠親房の言葉を引用しています。(ウツボ)「今上陛下を拝することは天照大御神を拝することで、天皇を現人神、現御神と仰ぎまつるのが大和民族の信仰である」とも。(カモメ)さらに「戦争は降魔破邪の手段で皇基恢弘の為にするので正しい事であり、而も誠心を以てやるのであるから負ける事は無い」「此の信念が犠牲的精神、攻撃精神、必勝の信念となり、武勇となりて敵を粉砕し、退くを知らぬ進を知るのみ」と説いていますね。(ウツボ)そうだね。精神主義の乃木希典大将、荒木貞夫大将も顔負けの極度な精神家としての塚田攻大将の内面が浮き出てくる冊子だ。(今回で「陸軍大将異聞」は終わりです。次回からは「海軍大将異聞」が始まります)