580.海軍大将異聞(40)折りにふれて、高木少将は「千三十年の愚」という話を幕僚達にしていた
(カモメ)末國正雄海軍大佐(山口・海兵五二・海大三五・第五戦隊参謀・中佐・第三艦隊参謀・人事局第一課・大佐・艦政本部出仕兼人事局員)は、丸別冊「回想の将軍・提督」の中で、高木武雄大将について、次の様に述べている(要旨抜粋)。(ウツボ)この末國大佐の回想の後半にある、司令部のサイパン島進出の部分は、前述した高木中将の内容と重複しているけれど、一応全部紹介してみよう。昭和十四年十一月、高木武雄少将は軍令部第二部長に補された。この時、末國正雄少佐は軍令部副官だった。(カモメ)その頃海軍に海軍乗馬会という同好者の集まりがあり、陸軍大学校や、陸軍士官学校の乗馬を借り、同校の馬術教官の指導を受けて乗馬の練習を行っていました。(ウツボ)その中でも、高木少将はなかなかの乗馬練達者で、末國少佐ら若い仲間と一緒に乗馬練習に度々参加していた。高木少将は堂々たる体格の持ち主で、その乗馬ぶりも放胆そのもので、“高木大王”の敬称で呼ばれていた。(カモメ)昭和十六年九月一日、高木少将は第二艦隊所属の第五戦隊司令官に転補されました。末國正雄少佐は、第五戦隊司令部の砲術参謀として高木少将に仕えました。(ウツボ)司令部での食事時や、その他、折りにふれて、高木少将は「千三十年の愚」という話を幕僚達にしていた。そしてその愚をおかさないように諭した。その、「千三十年の愚」という話は次のようなものだった。(カモメ)読んでみます。「昔、旅人の通行が多い峠に一軒の茶屋があり、そのわきに樹齢の知れない巨大な古木が立っていた。茶店の主人はこの大樹にしめ縄を張り、毎年毎年欠かさずに千年の樹齢(主人は樹齢千年と思っていた)の祭礼を続けていた。やがて主人は亡くなった」(ウツボ)「あるとき、通りがかった旅人がこの大樹を仰ぎ見て、茶店の老婆に『この樹は何年ぐらいの樹か?』と尋ねた。老婆はいとも自信ありげに『千三十年』と即答した」(カモメ)「旅人は驚いてその訳を問い返したところ、老婆は『主人が亡くなって今年が正確に三十年目であり、主人は生前に毎年、この樹は千年の大樹であると言っていたので、まさに千三十年の樹なのである』と言うのである」(ウツボ)「この三十年という数字は疑う余地のない正確な数字であるが、その土台となる千年は何の根拠もない、怪しい数字である」(カモメ)「したがって、土台の不確実なものの上にいかに正確なものを積み上げても、所詮、全体は極めて不正確で信用できるものではない」。(ウツボ)以上が高木少将の「千三十年の愚」という話だが、この話は、高木少将の人柄や性格、仕事ぶりをうかがわせる訓話であったと、末國大佐は述べている。(カモメ)昭和十八年六月、高木中将は潜水艦隊である第六艦隊司令長官に転補されました。当時、潜水艦作戦は不振で、損傷艦が多く、軍港で修理中の艦も多く、司令部は広島県の呉に置かざるを得なかったのですね。(ウツボ)そうだね。修理のできた潜水艦は、いずれも太平洋方面に進出して配備についた。(カモメ)高木中将は、隷下の潜水艦が戦場に進出しているのに、司令部のみ呉にあることを好まず、部下と共に戦場に出る決意を固めました。(ウツボ)それで、参謀長その他の幕僚は呉に残し、後方業務の遂行をこれらの幕僚に委せ、高木中将自らは先任参謀ほか少数の司令部員を帯同して、昭和十九年六月六日、サイパン島に進出した。(カモメ)そして高木中将以下、サイパン島で玉砕しました。高木中将の最後電報は「我れ今より司令部員を従え敵に突入する万歳」でした。(ウツボ)海軍当局は七月八日、高木中将を戦死と認定し、同日付で海軍大将に進級の手続きを取り、同日海軍大将に親任された。五十二歳だった。(カモメ)以上が、末國正雄海軍大佐の回想です。(ウツボ)なお、南雲忠一大将と、高木俊雄大将は、戦死認定が昭和十九年七月八日で同じですが、総理大臣の上奏は、南雲大将が昭和十九年九月二日、高木大将が昭和二十年二月二十三日と遅かった。(カモメ)南雲大将は海軍兵学校三六期、高木大将は三九期と、三期違うので、進級の基準を下げるために、時間を要したと言われていますね。(ウツボ)そうだね。(今回で「海軍大将異聞」は終わりです。次回からは「陸軍撃墜王列伝」が始まります)