70、戦艦陸奥爆沈(10) 私は三好が事故にあってくれて、本当によかったと思います
(ウツボ)「陸奥爆沈」(新潮社)の著者吉村昭氏は、Q二等兵曹の嫌疑について述べている。(カモメ)前にも述べましたが、査問委員会の調べで、陸奥爆沈は人間の行為によるものだという疑いを深め、調査に入りました。(ウツボ)このQ二等兵曹についても、実は「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)のK二等兵曹、「海市のかなた」(中央公論新社)で述べられているF二等兵曹と同様の推論になっているんだね。(カモメ)だが、注目すべきは、著者の吉村昭氏は取材の最後に、このQ二等兵曹の実家を訪ねていることですね。(ウツボ)そうなんだ。Q二等兵曹の死体が発見されていないので、生存して戦後生き延びているのでは、という万が一のはかない期待があったようだが、現実的にはありえない話とは思うのだが。(カモメ)でも、吉村氏は自分を納得させるために、そうしたのでしょうね。Q二等兵曹は陸奥の火薬庫に発火させ、すぐにそこを飛び出し、海に飛び込み、泳いで逃げた事も可能性としてはあると、吉村氏は推理しています。(ウツボ)う~ん、そこのところを吉村昭氏は次のように記しているよね。「私は陸奥爆沈事件の調査のしめくくりとして、Q二等兵曹の故郷を訪ねてみようと思うようになった」(カモメ)続いて読んでみます。「もしもQ二等兵曹が生きているとしたら、年齢もすでに五十歳を越えている。故郷に帰っているとしたら、ひっそりと畑仕事でもしているかも知れない」と。(ウツボ)吉村氏が故郷を訪ねてみると、Qという人の白木の箱は昭和19年春に生家に戻っていた。現在は両親も死亡、肉親の一人が村にとどまっているだけだったというんだね。(カモメ)吉村氏は帰り際に、Q二等兵曹の故郷に何時までも佇んでいたそうですね。(ウツボ)これで陸奥爆沈の原因の推理は終わる訳ですが、以上のように陸奥爆沈の原因は、あらゆる面で推定のままで、確定はされていない。(カモメ)それが当時は戦時中であり、海軍の秘密主義と関係しており、また爆沈で全てが海の藻屑となり証拠が確定できないと言う事もあったのですね。だから、いまだに陸奥爆沈は永遠のミステリーとなっているんですね。(ウツボ)うん、だがね、永遠のミステリーと言ってしまえば、架空の話のように聞こえる。俺は自分なりの結論を出したいと思う。(カモメ)俺は一番気になるのが、人為説の二番目である辻野氏の温度計の接点を上げたことだと思いますね。(ウツボ)そうですか。俺は人為説の三番目の犯人説だね。M委員会の出した結論は、過去の多数の戦艦爆沈の解明されている原因が人為的なものだという事実を考慮しているんだよ。可能性が一番高い。(カモメ)でも、はっきりとは分からないですね。(ウツボ)いや、はっきりしているんだ。三番目の説が正しいかどうかは、確かに分からないが、戦艦陸奥は、爆沈したということは事実ですよね。原因がないのに爆沈はしない訳ですね。爆沈が事実なら、原因の存在も間違いなく事実ですよ。必ず原因はある。今まで列挙した原因の中のどれかであることは間違いない。これははっきりしている。(カモメ)そうですね。(ウツボ)とにかく陸奥は沈んだ。陸奥爆沈の影響は大きいのですね。陸奥がいなくなって、長門以下の第二戦隊の戦闘力を半減させ、戦艦そのものの使い方が作戦面で混乱を招くようになった訳だ。(カモメ)陸奥があれば戦艦群の組織的な使い方ができたのですね。太平洋戦争では当初日本の戦艦は12隻いた。陸奥爆沈の前の昭和17年11月13日、比叡が、15日、霧島が第三次ソロモン海戦で沈没しています。(ウツボ)そうだね。陸奥爆沈の翌年の昭和19年10月24日、大和の姉妹艦、武蔵がフィリピンのシブヤン海で壮烈な最期を遂げた。(カモメ)そして、10月25日、スリガオ海峡に突入した山城、扶桑は敵艦隊の集中砲火を浴び沈没した。11月21日、台湾沖を航行中の金剛が敵潜水艦の攻撃を受け沈没しました。(ウツボ)陸奥が爆沈してから1年半までにのうちに日本海軍の戦艦は6隻を失い残りの戦艦は4隻になっている。(カモメ)あとは昭和20年4月7日、沖縄特攻菊水作戦で大和が沈没。7月24日に日向が、28日に伊勢が呉港大空襲で沈没しました。(ウツボ)そして終戦の時、残っていたのは陸奥の姉妹艦、長門だけだった。その長門も昭和21年7月30日、ビキニ環礁で行われた原爆実験で標的にされた。(カモメ)そうですね。当時、同じく標的艦にされた米海軍の戦艦ネバダは原爆が爆発すると瞬時に沈んだが、長門は沈まなかったのですね。長門は実験から4日後にその姿を海中に消したということです。(ウツボ)陸奥は爆沈、長門は原爆の標的艦として沈没、日本帝国海軍において輝かしい栄光の歴史をもった、長門、陸奥の姉妹艦は、その最後はともに哀れだった。(カモメ)周防大島町では毎年6月8日に陸奥の慰霊祭を実施していますね。(ウツボ)「海市のかなた」(中央公論新社)によると、三好艦長の奥さん三好近江さんが中心となって組織した陸奥会は「軍艦陸奥五十年祭」のあった平成4年6月に解散した。(カモメ)ですが、三好近江さんと副艦長の奥さん大野靖子さんの遺族の家族を中心に多くの家族が伊保田の慰霊祭には参加していましたね。(ウツボ)そうですね。ところで、平成11年7月29日、テレビ東京の人気番組「開運!何でも鑑定団」に陸奥の舷窓が登場した。(カモメ)それはですね、「家人が昔、引き揚げ作業に携わっていた知人から譲り受けたものだ」と入手のいきさつを依頼人の女性が話していましたね。(ウツボ)うん。彼女の評価額は10万円だった。ところが鑑定団のつけた値段はその10倍の100万円だった。予想外の鑑定結果は舷窓の記念碑的な価値を評価したらしかった。(カモメ)昭和35年、新東宝で「謎の戦艦陸奥」という映画が制作されました。試写会に招かれた遺族は話の内容に唖然としたそうです。(ウツボ)それは、副長が将校倶楽部で知り合ったスパイのマダムと恋に落ち、スパイ一味の手によって陸奥に時限爆弾が仕掛けられるというストーリーであったからだね。(カモメ)ええ。遺族はとても承服できるものではなかった訳で、とりわけ戦艦陸奥の元副長夫人の大野靖子にしてみれば陸奥に名をかりた、とんでもない贋作だった。(ウツボ)出来すぎた軽いストーリーだったんだね。遺族は何度となく抗議し、全てフィクションであるという字幕を映画会社が入れることで決着した。だが大野靖子にしてみれば生涯許す事のできないものだった。(カモメ)「陸奥爆沈」(新潮社)によると、陸奥会主催の靖国神社で行われた陸奥慰霊祭で、三好艦長夫人、三好近江さんは、遺族の前でご主人のことを語ったことがあるそうです。(ウツボ)そこのところを読んでみる。「爆沈した前日、新たに扶桑艦長となられた鶴岡信道大佐が陸奥に親任の挨拶にこられ、その答礼として爆沈日に三好が扶桑に行ったそうです。鶴岡さんは三好に昼食を一緒にしようと引き止めたそうですが、三好は留守にもできぬからと陸奥にもどってあの事故にあったのです」(カモメ)続けます。「私は三好が事故にあってくれて、本当によかったと思います。もし留守中にあんな事故が起きたら三好も艦長として生きてはおられなかったでしょう。このように遺族の方々に親しくしていただけるのも、三好が事故当時陸奥にいてくれたからなのです」と淡々とした言葉で語ったと述べられています。(ウツボ)三好近江さんは平成3年12月4日早朝に自宅で永眠した。92歳だった。両手を胸に置き、眠るように息絶えていたという。(カモメ)三好近江さんのあと、陸奥会会長として五十年祭を努めた大野副長夫人の大野靖子さんは平成9年12月3日、クリスチャンになった彼女は89歳の天寿を終えました。(ウツボ)今はそれぞれ天国で三好艦長、大野副長と一緒だね。(「陸奥爆沈」は今回で終わりです。次回からは「シンガポール陥落」が始ります)