80.シンガポール陥落(10) 一瞬、捕虜達は水を打ったように静かになった
(ウツボ)二十五軍の参謀と近衛師団参謀長・今井亀次郎大佐の対立の中で、円満な二十五軍参謀、杉田中佐、藤原少佐の二人が、両者の間に入って、事態の改善に努力した。(カモメ)二十五軍参謀長・鈴木宗作少将は事務能力の優れた好人物でしたね。近衛師団がバクリで苦戦している時、鈴木少将が戦況視察に近衛師団を訪れたことがありました。(ウツボ)そうだね。第五連隊の本部にやってきたとき、岩畔連隊長に鈴木少将は「今井参謀長については香しくない評判が多いが、自分はそれほどまでではないと思っていた。けれども、今日ここに来る途中、ムアル河渡河点で師団参謀長は眠っていた。いやしくも師団長、参謀長たる者が、師団司令部よりも後方の渡河点で休んでいるような行為は許されない」と激しい口調で語ったというんだね。(カモメ)近衛師団司令部は、実は隷下諸部隊からも評判がよくなかったと記されています。(ウツボ)それは、西村師団長と、今井参謀長の仲が犬猿も只ならずという関係だった。このため師団参謀連中の執務は円滑を欠き、また隷下の部隊長が当惑するような事態に遭遇した事も一度や二度ではなかった。(カモメ)次のようにも述べられています。師団長と参謀長が話しているところを見た隷下部隊長は一人もいなかった。師団参謀が愚痴をもらしたところによると、参謀長が師団長に直接計画案などを説明する事もなかったといわれています。(ウツボ)さらに、師団司令部がバンコックの工業学校校舎に置かれたとき、100メートルもある長い建物の両端に師団長室と参謀長室が設置されたという。通常師団長の隣に参謀長室は設置されるものだが。(カモメ)開戦以来二ヶ月あまり、お互いに話もしなかった師団長も師団長なら、参謀長も参謀長であると。(ウツボ)ところで、「大本営発表・シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、シンガポールが陥落した後、シンガポールで多数の華僑が日本軍により虐殺されたとの記述がある。(カモメ)具体的には、昭和22年9月3日、東京裁判の法廷で、杉田一次元陸軍大佐は、検察官の「華僑五千人を死刑に処したことを、それが、二月二十三日までに実施されたことを、知っておるわけですね」という質問に「それは全部で五千人殺された事は、21日頃から全期間を通じてのことであります」と答えている。(ウツボ)杉田はシンガポール陥落当時中佐で、山下中将の第25軍の情報部主任参謀だった。(カモメ)以前にもありましたが、山下、パーシバルの降伏会見にも出席して、通訳もしています。戦後は自衛隊に入り陸上幕僚長になっている人です。(ウツボ)ところで、パーシバル中将は五百人の捕虜とともに昭和17年8月にシンガポール港から日本陸軍の徴用船で台湾の高雄港に運ばれた。(カモメ)その徴用船の一等航海士だった瀬野喜四郎という人が「昭和戦争文学9武器なき戦い」(集英社)に「パーシバルとともに」と題して寄稿していますね。(ウツボ)そうだね。瀬野氏は当時26歳の一等航海士で、捕虜であるパーシバル中将の世話を申し出て、航海中、自室にパーシバル中将を招き入れ、居住を共にした人だ。(カモメ)彼の話によると、パーシバル中将はロンドンの近く、WAREという町に住んでいて、奥さんと娘と息子がいるとのことでした。(ウツボ)中将は夜は瀬野一等航海士の部屋で寝るが、昼は、英軍捕虜のたまり場に降りて行き、捕虜と共に過ごした。(カモメ)瀬野氏は午後3時になると、中将を入浴時間なので迎えに行く。すると英軍の捕虜達が、瀬野氏の商船士官の制服を見て「あいつは海軍大尉かな?」「短剣吊っちゃいねえ。この船のキャプテンだよ」「でも金筋三本だぜ。それにまだ若いや」などと捕虜達がまくし立てていたということですね。(ウツボ)商船士官の金筋三本は一等航海士(チーフメイト)の階級章だね。二本線が二等航海士、一本が三等航海士だからね。(カモメ)瀬野氏はよく船内新聞を英訳して中将に話して聞かせたということです。ある日「ケント公の飛行機が山にあたって墜落した」という記事があった。(ウツボ)当時の商船仕官は外国航路なら英語も堪能だった。(カモメ)そうですね。瀬野氏がケント公の記事を英訳すると、中将は「英国では濃霧がしばしばかかるので」とつぶやき「ケント公は英国皇帝ジョージ六世の弟君だ。ケント公にはギリシア人の美しい内妃がある」と言った。(ウツボ)ケント公は、当時の日本で言えば、海軍大佐の高松宮宣仁親王殿下に当たる人ではないだろうかね。大正天皇の第三皇子で昭和天皇の弟君ということでね。詳しくは分からないけど。(カモメ)そうですよね。それからパーシバル中将は捕虜達の所に行き、「諸君、謹聴されよ」と言って話し始めたら、一瞬、捕虜達は水を打ったように静かになった。それから、英国の白人達の顔に悲しいかげがはしるのを見たと瀬野氏は記しています。(ウツボ)英国も日本と同じ皇室を大切にする国ですね。戦後、昭和33年、船長となった瀬野氏は英国に航海した時、十六年ぶりに、赤十字社に勤務するパーシバル氏と再会している。(カモメ)シンガポール攻略戦での「イエスかノーかの降伏会見」の勝者、山下奉文中将は戦後、マニラの軍事裁判で戦犯として処刑。敗軍の将、パーシバル中将は、生き延びて赤十字社に勤務。(ウツボ)今は、お二人とも天国で仲良く回顧談にふけっているかも知れないね。(「シンガポール陥落」は今回で終わりです。次回からは「珊瑚海海戦」が始まります)。