240.宮城事件(20)百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり国と共に必ず七生する
(ウツボ)兵衛が兄の稔夫に、命拾いをした、その理由をたずねると、「古賀さんたちが、師団長を殺ったとき、俺は司令部の前の植え込みの中に潜んでいて、銃声が聞こえたから、こいつはいかん、とまた部隊に戻ったんだ。もし憲兵が来て、引っ張られるなら、いっそのこと、自分でやってしまおうと思ったりした」と稔夫は、自分の額を指した。(カモメ)稔夫は自分の引き出しを引き開けると、そこにはむき出しの拳銃が、ずっしりと横たわっていました。(ウツボ)同志による師団長の説得がなかなか進みそうに見えなかったとき、稔夫は古賀参謀から「おまえ、殺ってくれんか」と頼まれた。(カモメ)しかし稔夫は「直属上官ですから、それはやれません」とことわったのです。その返事は、軍隊では筋が通ったものだったから、古賀参謀もそれ以上強いて押し付けなかったのです。(ウツボ)兵衛は稔夫から、椎崎中佐、畑中少佐、古賀少佐の三人が自決したことを、聞かされた。兵衛は古賀参謀とかなり親しくしていたので、彼の自決を聞いてショックを受けた。(カモメ)兵衛が「これから、どうするつもりだい」と尋ねると、稔夫は「うむ。横浜あたりにでも潜って、占領軍相手に一杯飲み屋でも始めようかと思っとる」と答えました。(ウツボ)兵衛が「大丈夫かね」というと、稔夫は「さあ、どうかねえ」と、大声をあげて笑った。(カモメ)終戦後の八月十七日、迫水書記官長は職員に見送られて官邸を後にしました。官邸を出た迫水氏はまず、二重橋の前に行って皇居をはるかに拝み、陛下に御礼とお詫びを申し述べました。(ウツボ)それから、街中を歩きたいという衝動にかられて、歩き出した。いつのまにか、銀座の街角に立っていた。八月半ばの空はぬけるように晴れ渡り、陽光がまぶしかった。(カモメ)ふと見ると、電柱に一枚の紙が貼ってあった。何の気になしに、そこに書き付けてある文字を読むと、それは、次の様に記してあったのです。(ウツボ)読んでみるよ。「日本のパドリオを殺せ。鈴木、岡田、近衛、迫水を殺せ」(カモメ)驚いた迫水氏が警察に聞くと、「右翼や陸軍の残党が命を狙っているので、外に出ないでもらいたい。また、一箇所に三晩いじょう泊まらないこと」と言い、それを守らないと、警察では責任がもてないとのことだったのです。(ウツボ)その日から迫水氏は、全国指名手配の犯罪人のように、さすらいの旅が始まった。知人宅を隠れ家にして転々と明け暮れた。岡田大将も鈴木総理も同様だったという。(カモメ)迫水氏は戦後衆議院議員、参議院議員に当選していますね。(ウツボ)そうだね。さて、畑中少佐の話に戻ろう。宮城事件について、元東部軍参謀・不破博大佐は次の様に言っている。(カモメ)読んでみます。「宮城事件はだれが起こしたかと言うに、私は畑中少佐一人の強烈な意思によるものだと考える。椎崎中佐といえども、畑中少佐にひきずられたものと判断する。したがって、井田中佐および、古賀、石原両参謀のごときは、畑中少佐の熱意にただ盲従したにすぎない」。(ウツボ)窪田兼三少佐は、一度、畑中少佐に「失敗したらどうするか」と尋ねたことがあった。そのとき、畑中少佐は次の様に答えた。(カモメ)読んでみます。「松陰先生や、景岳先生方の後を追うべく自決して、武蔵野の野辺に朽ち果てるんだ。敵のために、自己の魂も、国も、一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり国と共に必ず七生する」(ウツボ)畑中少佐と椎崎中佐は、宮城占拠が失敗に終わった後、馬と側車に乗って、宮城周辺を走り回り、徹底抗戦の檄文の紙を撒き散らした。(カモメ)その後、八月十五日午前十一時二十分、宮城前二重橋と坂下門との中間の芝生で、自決したのですね。(ウツボ)そうだね。二人はそれぞれ、軍刀で切腹し、そのあと畑中少佐は森師団長を射ったのと同じ拳銃で額の真ん中をぶちぬき、椎崎中佐も拳銃で頭を射って倒れた。二人の長い一日の終わりだった。(カモメ)畑中少佐と椎崎中佐の遺体は八月十五日午後、竹下中佐によって宮城前から引き取られ、市ヶ谷台上で阿南陸相の遺体とともに、夜、荼毘に付されました。(ウツボ)そのとき、軍務課長・吉本重章大佐(陸士三七・陸大四九)の読んだ弔辞は、二人を英霊として綴ってあった。反逆者あつかいできない心情が、陸軍のなかにあったのだろう。(カモメ)畑中少佐の辞世の歌は「今は唯 思い残すこと なかりけり 暗雲去りし 御世となりせば」でした。椎崎中佐の遺書は太い文字で「至誠通神」と書かれていました。(ウツボ)井田中佐は八月十五日、妻に「自決するから明日の朝遺体を引取りに来い」と言って、自宅を出て陸軍省に向った。だが、陸軍省で荒尾軍事課長らに自決を引き止められた。(カモメ)翌朝、井田中佐の妻が義父と共に陸軍省に遺骸を引き取りに来ました。ところが、生きている井田中佐が姿をあらわしたのです。そのとき、妻は、はじめて声をたてて泣きました。(ウツボ)「自決」(飯尾憲士・光人社NF文庫)によると、森師団長の遺骨は二階の師団長室の隣の貴賓室に安置されていた。(カモメ)八月十五日正午、近衛師団司令部では、一同揃って、玉音放送を拝聴していました。放送が始まって少しして、突然、ダダダっと階段を駆け上って行った将校がいたのです。その後、銃声が響きました。(ウツボ)他の者が駆け上がってみると、安置された森師団長の遺骨の前で、古賀参謀が割腹後、拳銃自決していた。(カモメ)石原参謀は八月十七日、東部軍の命令で、上野で蹶起した水戸陸軍航空通信学校の部隊を鎮圧するため、説得に行き、蹶起部隊の一少尉にその場で射殺されました。(ウツボ)上原大尉は、八月十九日午前二時、航空士官学校校内にある航空神社境内の遥拝所玉砂利の上で、陸士同期生で同郷の区隊長・荒武禎年大尉(陸士五五)の介錯で自刃した。(カモメ)宮城事件の鎮圧に当たった東部軍の軍司令官・田中静壱大将は、八月二十四日午後十一時過ぎ、東部軍の軍司令官室において、拳銃で心臓を射抜き自決しました。五十七歳でした。(ウツボ)宮城事件は終戦とともに幕を閉じた。だが、畑中少佐は、あの世で、吉田松陰と固い握手を交わしただろう。(カモメ)握手のあと、吉田松陰は、畑中少佐になんと声をかけるでしょうね。(ウツボ)きっと「畑中くん!畑中くん!」と大声をあげて、大粒の涙をボロボロ落としながら、畑中少佐を両腕で、固く抱きしめただろうね。(今回で「宮城事件」は終わりです。次回からは「海軍予備生徒」が始まります)