カテゴリ:詩、俳句、短歌、川柳、都都逸等
今や花の都東京の新名所となって久しい東京スカイツリー。その高さ634mは、かっての武蔵の国の「ムサシ(六三四)」にあやかったものというのは、皆さんご承知のとおり。 逢坂の関より東へは足を踏み出したことがないという古の都人は、武蔵の国などというのは、家康が江戸に幕府を開いてからさえも、僻地も僻地、人の住むところではないと思っていた。 事実、「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ」という狂歌が残っているくらいですから、荒漠とした荒れ野原であったことが想像されます。 今私が狂歌と言ったのは、この歌には別の意味が込められていて、荒れ野原を歌ったというよりは、むしろこちらの方が本筋と言えるくらい。 江戸の美味いものを題材にして、当時の人々の暮らしと生き様を鮮やかに蘇らせるエッセイ「大江戸美味草紙(むまそうし)」(杉浦日向子著)に、この歌が紹介されております。
その「酔い覚めて」の章より、酒について。江戸人はどのくらい酒を飲んだか?杉浦さんは文献を徹底的に調べて、当時の酒量をこう計算しています。 上方から入って来る上質な清酒(下り酒)は、一樽が3斗6升入りで年間100万樽。当時の江戸の人口を100万人として、その半数が飲酒したとすれば、1人1年7斗2升、一か月6升。すなわち一日2合、休肝日なし。 このほかに関東の地酒が年間15~16万樽、焼酎が3万樽消費されたことを合わせると、まさに江戸は酒びたしの街であったと。江戸ッ子がおっちょこちょいで喧嘩ッ早いのは、いつもほろ酔いかげんだったからではないかとまで言わしめています。 江戸人と酒を語るとき、冒頭にあげた「武蔵野」は切っても切れない関係にあると、杉浦さんは書いておられます。 武蔵野は見渡す限りの原野。すなわち、野見尽くせぬ地。呑み尽くせぬ・・・。 そこで呑み尽くせぬほどなみなみと酒の入る大盃のことを「武蔵野」と呼んだのだと。 この「武蔵野」を使った大酒飲み大会の記録が残っているのだとか。文化14年(1817年)3月23日、両国柳橋の料亭「万八桜」で行われたのだそうです。その記録たるや俄かには信じられないほどの大記録。 68歳の堺屋忠蔵さんは、3升入る「武蔵野」で3杯(9升)飲んだとか。かたや30歳の鯉屋利兵衛さんは、こちらはなんと6杯半(1斗9升5合)。さすがに酔いつぶれてしまったそうですが、この話には続きがあって、利兵衛さんは目覚めてから茶碗に水を17杯飲んだということです。 ・・・よく目が覚めたものだと感心しますね。(笑! 酔い覚めのぞっとするとき世に帰り あの世から急転直下生還したような気持、したたかに酔いつぶれ、目覚めたときの酒飲みの心中を押し測った川柳、見事ですね。 水を17杯飲んだという利兵衛さん、閻魔大王に酒臭いと言われ、この世に舞い戻れたのでしょうか? にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年08月09日 11時50分06秒
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