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カテゴリ:光圀の諸国への旅
「自家製麺 甚」から出た後に、そのまま道に沿って浅草と反対方向へゴー。
少し歩いたら、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺に到着。この写真は甚へ向かっている途中に浅草通りの向かいから撮ったものだ。 東都浅草本願寺、浅草本願寺、浅草門跡とも知られるが、正式な名称は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。浄土真宗東本願寺派の本山である。ご本尊は阿弥陀如来。東本願寺は仏縁を結ぶ一助として御朱印、朱印帳ではなく、巡拝印、巡拝帳という名称を使っている。 1591年あるいは1603年に、教如が神田に開創した江戸における本願寺の録所(教務所、出張所)である江戸御坊光瑞寺が始まりという。本願寺の東西分立でここは真宗大谷派の本山である東本願寺の掛所(別院)となったが、明暦の大火で焼失されたため、浅草へ移転。西本願寺の江戸浅草御堂は築地へ移転し、今の築地本願寺となった。戊辰戦争の時にここは彰義隊の拠点となった。関東大震災、東京大空襲で再び焼失され、1953年に再建。1965年に浅草本願寺から東京本願寺へ改称。1969年から起こった真宗大谷派内部の対立で、東京本願寺と賛同寺院により「浄土真宗東本願寺派」が結成され、東京本願寺はその本山となった。 浄土真宗の宗祖とされる親鸞の像。 東西分立前の浄土真宗本願寺派の中興の祖とされる蓮如の像。 五・一五事件や二・二六事件などにより戦線の日本は政党内閣が崩壊し、政党政治が衰退してしまった。この流れで、憲政功労者の慰霊、顕彰、更には国民の憲政、政党政治に対する認識を高め、憲政、政党政治の擁護、発展に貢献するを目的として新たな憲政碑は建立された。浅草本願寺は、明治8年(1875年)に明治天皇の臨幸で、日本で最初に開かれた「地方官会議(知事会議)」の議場に使用されるため、その建立地として選ばれたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.16 00:10:11
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