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スマイリー・ネット

スマイリー・ネット

2007.11.25
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カテゴリ:スマイリーの視点
●麻薬犯罪では、先ごろ三田佳子のバカ息子が三度目の摘発を受けたばかりですが、そこに、またもこんな事件が起きました。
水面下では、きっと、こんな事件が10~100倍くらい起きているんでしょうね。


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「有罪“セレブママ”の乱れた私生活」 (ゲンダイネット)
 合成麻薬「MDMA」を使用し、麻薬等取締法違反の罪に問われたマーク・パンサーの妻・酒井薫子(29)に厳罰だ。

 東京地裁で開かれた20日の初公判。即日結審で薫子に言い渡されたのは、懲役1年2月(執行猶予3年)の有罪判決だった。裁判官は「薬物に対する警戒心が乏しく、再犯の恐れもある」とバッサリ切り捨てたが、そりゃそうだ。

 薫子は高級子供服店を経営し、「セレブママ」としてメディアに登場していた。しかし、法廷で明らかになったのは、乱れきった私生活――。

「高校時代からクラブでMDMAを入手し、使用していました。夏にハワイ旅行に行ったとき、なぜか友人から女性用バイアグラとMDMAをもらい、自宅のクスリ箱に入れていた。帰国して家族やカネのことを考えてブルーになり、酎ハイ10杯を“ヤケ酒”した後に飲んだらしい。子供はマークの実家に預けていたようです」(司法記者)

 薫子は「私が迷惑をかけたせいで夫の仕事が減りました。店は夫に任せて専業主婦になります」と泣いていたが、6月にも麻薬のケタミンを所持した罪で逮捕され、不起訴処分になったばかり。本当に大丈夫か……。
【2007年11月21日掲載記事】[ 2007年11月24日10時00分 ]

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●最近の学校はカリキュラム・ダウンしているそうですし、大学受験も、贅沢を言わなければ誰でも、どこかには入れるご時勢です。
受験科目にしても、労力のかかる歴史科目を敬遠する傾向があるようです。
うちの二人の大学生も、選抜試験で入りましたが、結局歴史科目は選ばずじまいです。
二人とも「アヘン戦争」のことは良く知らないようです。これでは、彼らは、最近頻発する麻薬問題の深刻な意味合いが理解できないでしょう。

●ということは、人間と言うものが、いかに平気で残酷なことができる生き物かということも理解できないということです。

●人間と言うヤツは、いくらでもきれいごとが言え、同時に、その舌の根も乾かないうちに、いくらでも悪いことができる、どうしようもない生き物だ、ということは、我々は知っておく必要があると思います。

●下記にウィキペディアの「アヘン戦争」を転載しました。
「アヘン戦争」は、英国が、インドで作らせたアヘンを中国に大々的に密輸出し、その代金で中国の茶、陶磁器、絹を輸入する、という不道徳な三角貿易構造を作ったことが原因で起きた英中戦争です。
戦争と言うより、英国と言う犯罪者を摘発しようとした、被害者でもある中国が、逆に返り討ちにあってしまったひどい事件と言った方が、実態が分かりやすいでしょう。
さすがの英国人もこの戦争を恥じて、今でも英国の教科書には載せていないため、大部分の若い英国人は、ご先祖様の非道の行いを知らないようです。
もともと英国は海賊が作った国ですから、今でも、このくらいのことは平気でやってのけるでしょう。

●ウィキの記述を読めば、現代の中国で麻薬所持が発覚したら死刑になる理由が良く分かります。

●悪辣な当時の英国に立ち向かった、中国(当時は「清」)の高級官僚、林則徐こそは「高級官僚」の名に値する人物だと思います。

●しかし、その中国も戦後は、チベットで大虐殺を行ったり国家的な狼藉を繰り返しています。そのこともウィキはちょっとだけ触れています。
わがNHKは、チベットの美しい名所を、平気で中国の名所として紹介していますが、どういう了見でしょう。(以上)


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阿片戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(アヘン戦争 から転送)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89

<戦争に至る状況>

[アヘン貿易]
当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆にイギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものはあったものの、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。

これに対し清は、すでに1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。またアヘンの輸入量増加によりイギリスの(銀)出超だったのが、清の(銀)出超になり、清国内の銀保有量が急速に減っていき銀の高騰をまねいた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が使用されていた。交換比率は相場と連動しており、銀貨1に対して銅銭1000文であったものが、銀の高騰により銀貨1に対して銅銭2000文という比率になった。銀本位制であるから税金は銀で換算されるため、農民が納める税金は二倍になった計算である。銀が不足し値が上がる事は物価が下がる事と同義であり、地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。


[アヘン取締]
ここで官僚の許乃済から「弛禁論」が出た。アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。と言う論である。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、今度はアヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。

(中略)

<戦争勃発>
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。

艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍船が現れたことに驚いた北京政府は(政権内の権力闘争も兼ねて)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。

1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。北京はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃。虎門の戦いでは関天培らが奮戦するも完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。


<終戦後の推移>
1842年8月29日、両国は江寧(南京)条約に調印した。

この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。

このイギリスと清との不平等条約は、他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。

この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って二つある。それは、東アジアで支配的であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、著しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的-中国人一人 々 にイギリス製の靴下を履かせるという目論見は達成されなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。


<戦争の余波>
阿片戦争は清朝側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。主戦場が広東という北京からは遠く離れた場所であったことや、中華が夷狄に敗れ去ることはまま歴史上に見られたことがその原因である。しかし一部の人々は、イギリスがそれまで史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカの情報の委託をされ、それを元に『海国図志』を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という有名な一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。

さて阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。そのため先にあげた魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。(幕末の日本人は本当に偉かったと痛感します。日本の今日の繁栄は、実に幕末のご先祖様たちのおかげであるとつくづく思います。ご先祖様がこんなに偉くなかったなら、今頃日本は、どこかの植民地か、良くて、朝鮮半島のような南北分断国家だったでしょう。どんなに感謝しても感謝し切れません。その日本を、今、愚かな小泉前首相や福田康夫現首相、小沢民主党が窮地に陥れようとしています。ぞっとします。)


<現代への影響>
この戦争について中国共産党はイギリスに謝罪を要求したことがあったが、そのときイギリス側が共産党のチベットでの虐殺について国際世論に訴えることをほのめかした為それ以上強く要求する事が出来なくなり、そのままうやむやになってしまった。(これが外交と言うものです。日本の政府や外務省もぜひ見習って欲しい。)また、イギリスの歴史教科書の中には戦因に阿片が絡んでいるという倫理的理由からか、阿片戦争の記載がないものもあるが、中華民国政府や中華人民共和国政府はイギリスに対して歴史教科書に阿片戦争を記載するよう要求していない。(英国は教科書にアヘン戦争を載せず、中国はチベット大虐殺を教科書に載せない。これが国民教育の世界的現実なのです。まして真偽のほども不確かな南京大虐殺や従軍慰安婦問題を日本の教科書に入れたがる連中は、日本人でありながら祖国を売った売国奴、中国のスパイ以外の何者でもありません。スパイ天国ニッポン!)





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Last updated  2007.11.25 12:50:43
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