カテゴリ:史跡巡り
街の歴史探索二日目の今日は、ちょっと足を延ばして岡山駅から電車(伯備線)で約1時間ほどの情緒溢れる城下町・高梁市へと行ってきた。
備中高梁駅で下車し、目指すは現存12天守(日本に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭)にして、日本三大山城の一つでもある備中松山城だ! 小さな駅を出てタクシーに乗り込み、標高約430mにある、天守の現存する山城では随一の高さを誇る備中松山城がそびえる臥牛山を目指す。 「お客さん、ホラ、あの山の上に見えるんが松山城じゃ」 タクシーの運ちゃんの指差す方に目をやると、予想をはるかに超える高い山の頂に、小さく城が顔を出している。うわぁ…高ッ タクシーで行けるのは、標高290mの所にある鞴峠(ふいごとうげ)まで。あとは自分の足で遊歩道を歩いて登るしかない。 「ま、15分ぐらいで着くじゃろ。頑張って」 と、タクシーの運ちゃんに励まされ、いざ、備中松山城へと参る こんな山道や こんな石段を踏みしめ、ひたすら歩く。 エ、エラい… 日頃の運動不足を痛感。途中、のたれ死にするんじゃないかと不安に襲われつつ一歩一歩登っていくと、時折城主様からの有難き登城心得の立札が(^^ゞ よくぞまいられた あわてずゆっくり歩むべし ひたすら歩くこと約20分。ひぃ~ッ、やっと着いた~ よくもまあ、こんな山頂に城なんぞ築いたもんだ。でもって戦国時代の武将達もよくここまで登ってきて戦をしたもんだ(江戸時代になると、山麓に陣屋を築いて御根小屋とし、そこを城主の日常の居館としていたらしい。そりゃこんな所、日々上り下りしてたら疲れるわな)。 1240年(鎌倉時代)の築城以来、城主がコロコロと変わっており、元禄6年(1693年)には赤穂藩主・浅野長矩(浅野内匠頭)が城の受取りにあたり家老・大石良雄(大石内蔵助)が城番となったことも。麓から遊歩道を歩くと、その大石内蔵助が登城の際に腰掛けて休憩したと言われる「播州赤穂藩家老 大石良雄 腰掛岩」なる、何の変哲もないただの石もあるらしい。 ふぅ、疲れた~ 駅に戻る前にちょっと寄り道して、山中鹿之介の墓へと向かう。 山中鹿之介は、山陰の戦国大名・尼子家に仕えた武将(美男子だったらしい)で、尼子が毛利に降った後も尼子再興に尽力した。その再興に賭ける鹿之介の執念たるや凄まじく、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話はあまりに有名。(Mですか?) 尼子再興に向けての3度目の戦いとなった上月城の戦いでまたしても毛利に敗れ、主君・尼子勝久は自害したが、鹿之介は自害せず、毛利に降った。しかし毛利輝元の下へ護送される途上で遂に鹿之介は謀殺された。 その鹿之介が殺害されたという場所、阿井の渡しにあるお墓(慰霊碑)がこちら。写真、暗ッ! 地元の方はどうやら然程関心がないそうな…(^^ゞ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.09.23 08:02:27
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