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2020.03.14
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カテゴリ:史跡巡り
3月9日、快晴。ホテルを出て向かった先は、桑名駅から徒歩で10分弱のところにある海蔵寺
ここには宝暦治水工事で自害した薩摩藩士51名のうち、24名の墓碑・供養塔がある。まずは薩摩義士の墓所に参らせていただいた。故郷から遥か遠く1,200キロも離れた無縁の地に眠る藩士達は何を思う…。お寺の方に声を掛けてみると、御住職はお留守だったが奥様がご在宅で、御朱印をいただいた後に本堂で1時間近く色々な話を伺うことが出来た。本当に有難うございました m(_ _)m

 境内にある薩摩義士墓所

 続いては桑名駅からまたしても養老鉄道に乗車し、岐阜県の大垣駅で下車。
宝暦4年7月4日、藩主島津重年は江戸への参勤の途上、藩士慰問のためこの地を訪れたのだが、そのとき到着したのが大垣であった。その大垣に私もついにやって来た!
 これで目的は果たせたのであるが、せっかくなので何か見てから帰ろう…と、あてもなく通りを歩いていると、大垣城に辿り着いた。大垣城といえば、関ヶ原の戦いの際に石田三成らが入城して西軍の根拠地になった城ではないか。宝暦治水のことばかり考えていたので、すっかり忘れていた。何たる幸運♪
 暫し大垣城を見学して駅に戻る途中、海蔵寺の奥様に教えていただいた宝暦5年創業の和菓子屋さんに寄ってみた。柿羊羹、美味しゅうございました。
 
 天守閣からの眺めがよかった

 大垣駅から再び養老鉄道に乗り込み、多度駅へ。駅からタクシーで向かったのは、平田さんら薩摩藩士が参拝して工事の無事を祈ったという多度大社。「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われたという、由緒ある立派な神社であった。何年か前に、境内の急坂を人馬とともに駆け上る神事で、本番前に馬を興奮させようと暴力的なことをして問題になったニュースがあったが、どうやらそれがこの神社だったらしい。お馬さん、今は大丈夫なのだろうか…馬

 自然に囲まれた本宮はこの奥

 多度大社を後にして、徒歩で多度駅へ。でもって多度駅からは養老鉄道で桑名駅へ。
 せっかく桑名に連泊しているのだから、“その手は桑名の焼き蛤” なんてシャレが江戸時代からあったというぐらい有名な桑名の蛤を食べてみようかとも一瞬思ったが、元々貝類は苦手なのである。なので、これまた江戸時代から売られていたという桑名の銘菓・安永餅をコンビニで購入し、ホテルでむしゃり。

 3月10日、朝から雨。最後に治水神社に参拝してから帰ろうかとも思ったが、新型コロナウイルス騒動が収束したら再びここに来ようと決めたので、今回はやめておいた。木曽三川公園センター再開の暁にはもう一度油島に行き、展望タワーから雄大な木曽三川をゆったり眺めながら改めて薩摩藩の偉業(の陰の懊悩)に思いを馳せたい。そして今度は藩主重年が視察したという一ノ手の工事現場(岐阜県羽島市~愛知県稲沢市)あたりもふらりと訪れてみたい。
 
 宝暦治水事件は、恩恵を受けた濃尾の子孫の方達が明治になって偉業の顕彰をしてくださるまで、地元以外では忘れられた歴史であったという。当の薩摩の方達でさえ、あまり知らなかったそうな。
 工事を終えて帰郷した藩士達には緘口令が敷かれていたうえ、工事責任者である総奉行の平田さんは工事完了後に自害、藩主の重年も完了の翌月逝去、副奉行の伊集院十蔵さんも翌年亡くなり、薩摩にはこの件の資料はそんなに残っていないのだとか。
 宝暦治水に苦しめられるためだけに藩主になったような島津重年の苦渋の日々、さぞ無念だったであろう晩年を思うと胸が痛む。
 ……しかし実際のところは、この後もやはり水害は起こったらしく、明治初期にヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事(明治治水)によって著しく改善されたという。仕方がないよね、宝暦治水は全て手作業だったのだから。当時としては本当に凄い工事を成し遂げたと思う。





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Last updated  2020.03.14 00:43:10
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